大雪の日

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今朝、何気なくFBに、「雨はやだな。どうせならふわっふわの雪がいいのに」などと不用意に書いたら・・・
なりました。ふわっふわの雪に。(^^;

 

ここまで本格的な雪は東京に来て7年間で初めて。
まるで北海道で見るかのような雪に驚いてしまいました。

しかも今日は、会社から受けろと言われている試験を受けに行く日にしていたので、何が何でも出かけなきゃいけない。
電車が止まっても嫌なので、早めに行って開始時間を30分早めてもらい、80分の試験を30分で超速回答し、帰って来ました。
今回は勉強の成果もあり、それでも合格。ただ・・・ あんまりにも所要時間が短いので、もしかすると不正行為疑われるかも?(^^;

帰宅時も雪は激しくなる一方で、しかも北海道と違い、一切除雪車が来ないので、幹線はともかく一本入るとザクザクの悪路。あちこちで車がスタックしてもがいてます。
とは言え、ノーマルタイヤではとても太刀打ちできる雪ではなく。もうどうしようもない、という感じでした。

僕自身は雪道は苦にならないんですが、この状況だと、いつ何時、コントロールを失った車が突っ込んでくるかも分からない状況だったので、さっさと帰宅し外出はしないことにしました。

自宅も室内がしんしんと冷え続け、正直エアコンの暖房では追いつきません。
今日ほど、こたつを買ってよかったと思った日はないですね。お陰でぬくぬくで過ごせました。
一日中座りっぱなしだったので、膝とか股関節が痛いですが・・・(^^;


さてと。最近のニュースで気になったことがあったので、それについて書いてみたいと思います。
それは、体罰について、です。

体罰って、本当に教育上不要なものなんでしょうか。

もちろん僕も、言ってわかる相手、理詰めで説明して理解できる相手に手を上げるのは絶対に反対です。

でも、「どんな相手でも、話せばわかる」というのは、絵空事ではないかと思ってます。
まして、分別のついた大人ならともかく(それでも言ってもわからない奴は大勢いますが)、
分別の付く前の小中学生、さらにはもっと前の年頃の子供が、本当に、果たして話せばわかる相手でしょうか。

話してもわからない相手に、「ならぬものは、ならぬ」ことをきちんと教える為に、身体に教え込む。
それすらも許されないのだとすれば、教育現場において、常に一定の社会不適合者を生み出すことを許容することにはならないでしょうか。

僕らが子供の頃、「忘れ物をした」「宿題を忘れた」「集団のルールを守らなかった」場合に、時として痛みを伴う罰をもらいました。
でも、当時の僕らは、「ああ、これはいけないことなんだな。だから罰を受けたんだな。」とは思っても、それを恨みに思ったことは一度もありませんでした。
有頂天になって騒ぐ子供を鎮めるためには、必要悪だとすら思います。

体罰がダメだと言うなら、大人の世界からも、懲役刑も死刑も、一切の苦役を伴う刑罰は無くなるべきです。
でも無くなりません。それは必要だからです。同じ理由で、必要だからこそ、体罰も全て無くすべきではないと思います。

ただ、刑罰が厳格な法律に基づき、3度に渡る審判にもとづいて下されるように。
体罰にも明確なルールと、それが与えられるべき厳格な審判があるべきなのです。

そう思いますから、繰り返しますが、今般の事件の如き、一教師個人の感情にもとづいて振るわれる暴力は決して容認しません。反対です。
だからといって、「体罰は悪い。体罰さえ無くなれば素直で良い子供が育つ」的なユートピア幻想を支持するつもりもありません。

今、「ダメなものはダメ」と教えられてない若者が社会に出てきて、問題になってます。
教育改革、脱ゆとり、大いに結構。だけど、「言ってもわからない相手」に、「ダメなものはダメ」といかに教えこむか。
その方法論を置き去りにして、この先の日本は無いような気がします。

なお、子供の人権問題に厳しい欧米各国でも、物心つくまで(言ってわかる年になるまで)は、悪いことをしたなら痛みを伴う制裁を容赦なく加えるそうです。
愛することと甘やかすことは違います。なんとか子育ての環境、教育の環境が改まることを切に願います。

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