先日、とある研究に伴うインタビューに協力した際、これまでの自分の半生を聞かれたんですが、改めて思い出してみると、それを書き留めておくのも悪くないのかな? という気もしたので、ちょっと書き留めておきたいと思います。
身バレしないギリギリを狙う感じになる・・というか、まぁ、FBもTwitterも本名でやってるし、ほぼ身バレ上等な感じになるかと思います。
どこにでもいる、普通のつまらんおっさんの半生ですけど、お暇潰しになりそうならどうぞごらん下さい。
どこにでもいる、普通のつまらんおっさんの半生ですけど、お暇潰しになりそうならどうぞごらん下さい。
1.生まれ~港北社宅時代(1980年~1983年頃)
僕は室蘭市の北部、製鉄所の社宅が広がるエリアで生まれました。
実は母方の祖父母が終戦後、室蘭に移り住んだ時に勤めたのが製鉄所で、当然ここ港北社宅で暮らしていました。そして生まれたうちの母も港北生まれ港北育ち。そんな母のもとに僕が生まれたのは1980年。当時、港北町3丁目の木造社宅に住んでいました。
今にして考えると、あれはたぶん戦前に建てられた社宅だったのだと思います。もともとは2軒続きの長屋社宅でしたが、2軒を1軒として使ってました。
玄関を入ってすぐ右側にトイレ。正面入ったところには居間。右手奥に四畳半くらいの和室。正面奥は一段下がって土間の台所になっていたのを覚えています。居間には小さなコークスストーブがありましたが、冬場の窓際や壁際はひどく寒かったのを覚えています。
もちろん内風呂など無くて、社宅外の一角にあった、会社の運営する銭湯に行ってました。川を橋で渡っていく銭湯だったのをよく覚えています。
母方の祖父母の家も港北町2丁目にあったので、よく行き来してましたね。
そして、1980年頃というと、製鉄所関係者なら記憶していると思うのですが、製鉄所が生き残りをかけて大規模な合理化を繰り返していた時期でした。多くの社員が「転勤」を余儀なくされ、僕も子供心に、近所の同じくらいの年の子たちが皆「てんきん」という言葉のもと、引っ越して行ってしまう寂しさを感じたものでした。
そして、当時の僕は知りませんでしたが、どうも1982年~83年頃、港北町で大規模な水害があり、社宅街に大きな被害が出ていたようです。幸い僕の住んでいた社宅はなんともありませんでしたが、下流域の社宅や、移転前のホームストア港北店が結構な被害を受けたそうです。
それがきっかけだったのか、会社の合理化が理由だったのかは知りませんが、港北社宅は廃止が決まり、取り壊しになりました。
僕自身は、この頃は3歳になる前のことで、物心もついておらず、おぼろげな記憶しかありません。
でも、時々、居間にあったコークスストーブや、屋外にあったコークス小屋、黒っぽい下見張りの外壁に緑の屋根の社宅。そんな港北町の原風景を懐かしく思い出すのです。
2.輪西時代(1984年~1986年)
港北社宅を立ち退きになった僕たち一家は、特例で輪西地区の「三橋アパート」9号館に移りました。
製鉄所の社員には、会社への貢献や個人実績に応じて等級がつけられており、その等級によって住める社宅やアパートのグレードが決まっていたそうなのですが、三橋アパートは当時の父の等級ではかなり背伸びした住まいだったようです。それは、本人の努力もありつつ、港北社宅の立ち退きに応じたことで等級が上がっていたので入れたのだという話を後から聞きました。
「三橋」は、後から調べたところによると、大正時代以前からある古い地名のようで、現在の輪西神社のあたりから潮見公園にかけての、ちょっとした沢になっている地形の一帯を指しているそうです。そこにあったアパートに2年ほど、僕たちは住んでいました。
三橋アパートには、製鉄所の構内から蒸気管が通じてて、冬場はスチームによる暖房がありました。部屋の間取りは、2DKかな? 3DKかな? といったところ。そして、内風呂がありました。ただ、恐ろしく寒い風呂場で、うちの母が嫌がってよく、中島のパレス(日鉄スポーツセンター)のサウナとかに行ってましたね。
僕が輪西地区にいた当時は、まだ輪西地区に社宅やアパートがたくさんあって、元町アパート、柏木アパートも健在で、輪西神社の近くにあったプレハブ社宅もたくさんあり、みんな人が住んでいました。
仲通りの商店街も、だいぶ寂れてはいたけど、商店がぽつぽつと営業してたし、「てつのまち市場」や「カネマツ輪西店」「肉のいりえ」があった七条仲通りあたりは、まだまだ夕方にもなると多くの買い物客で賑わっていたのを思い出します。
仲通りの商店街も、だいぶ寂れてはいたけど、商店がぽつぽつと営業してたし、「てつのまち市場」や「カネマツ輪西店」「肉のいりえ」があった七条仲通りあたりは、まだまだ夕方にもなると多くの買い物客で賑わっていたのを思い出します。

この頃、僕は「箏」そして「ピアノ」に出会いました。
今でも僕の人生において、音楽は大きな柱の一つなので、その柱の一つに出会うきっかけが、この輪西時代と言えますね。
「箏」は、もともとうちの母の実家が港北社宅にあったころ、隣の社宅に住んでいたのが、母と僕の箏の先生だったそうで。母は高校生の頃に箏の音色に惹かれて習い始めたそう。そして大人になり、結婚して、僕を授かった後も続けてましたが、子供を一人家に置いていけないので、稽古場に連れてこられていたんですね。そして、自然と気づいた時にはお箏の前に座らされていたというわけ。正式に習い始めたのが、4歳になる年の春なので、1984年の春ということになります。すると、来春には音楽生活40周年を迎えることになりますね。
「ピアノ」は、当時仲良くしていた友達の女の子が、隣の10号館に住んでいたんですが、その子がピアノを習っていて、立派なピアノがあったんですよね。そこで触れさせてもらい、「面白い」と思ったのがきっかけ。
こちらは5歳の時に、「ヤマハ音楽教室」の輪西センターに通い始めました。
5歳になる年には、輪西地区内にあった、会社が運営していた幼稚園「富士幼稚園」に入園。当時の富士幼稚園は、当時のホームストア輪西店の裏手にありました。当時、週に何日が給食があって、ホームストア内のパン屋さんから菓子パンと、同潤社から牛乳を運んできていたのを覚えています。
園舎はとても古かった記憶があります。園庭に面して正面玄関があり、そこから建物内に入ると、すぐに大きなホールのような部屋があり、その右手には職員室が。そしてホールの正面には引き戸があって、さらに奥に通じてて、年長さんのいる部屋に繋がっていた記憶があります。
その思い出一杯の富士幼稚園を僕たちは卒園できませんでした。なぜなら、僕たちが年長に上がるはずのタイミングで廃止になってしまったから。
そんな事情もあり、僕たちは転園することになったんですが、数ある幼稚園から僕が選んだのは、東町にある第二美園幼稚園(現・美園幼稚園)でした。
ここは、近代的な鉄筋コンクリートの四角い2階建ての建物で、園舎前には広い園庭があり、ちょっとした体育館のような施設もありました。そんな佇まいが、テレビとかで見る「学校」の雰囲気に感じられて、一足早く学校に行くようなワクワク感を感じたのを覚えてます。
(つづく?)