自分語り~中学卒業まで

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 「自分語り」の続きです。引き続き、お時間とご興味があれば・・・。

3.小学校時代(1987年~1993年)

 
 1986年になると、うちの両親が港北町に家を建てて、僕たち一家は港北町に戻ってきました。
 第二美園幼稚園は市内全域に送迎バスを出していたので、僕は転園しないで済み、無事卒園。1987年には高平小学校に入学します。
 
 当時の港北町は、1983年の水害被害を受けた下流域から宅地分譲が始まっており、そこに僕の家もあったのですが、社宅グラウンドの周辺とかは、社宅外の名残を残しつつ、土砂の不法投棄とかもあって廃墟化・湿地化しており、もともと湧き水の多いエリアなのもあって、結構広いエリアが湿地帯になってました。
 僕たちはそこで、ヨコエビやアメンボ、カエル等と親しむとともに、社宅街跡地には石垣や階段などの廃墟があり、僕たちの絶好の「秘密基地」だったわけです。低学年の頃はとにかく、学校が終わったら、友達を誘って、「湧き水」と呼んでたその湿地帯で日が暮れるまで遊んでいたものでした。
 
 そこ以外にも、通学途中には廃墟がたくさんあって、本当に楽しかったのを覚えてます。あの頃は、まさか再び港北町が家で埋まる日が来るとは思ってなかったかな。
 
 当時の高平小は、1学年2クラスでした。運動会は1組が赤組、2組が白組でしたね。
 
 あと、僕たちの住むエリアは新興住宅街だったので、住宅街が出来た当時、もともとあった町会との間で行き違いがあったらしく、自分たちの町会を新しく立ち上げたエリアでした。なので、今でも僕たちの町会は「新生町会」と言います。
 そんな経緯もあるからでしょうか。子供も参加できる町会の行事が多く、僕は「町会のおじさん・おぱさんに育ててもらった」「地域ぐるみで育ててもらった」という気持ちが強いです。
 当時は神社のお祭りに合わせて町会のお祭りもやってて、子供神輿も出てたし、町会内の公園用地(ふれあい広場と呼んでた)には小さいながらも夜店が出て、町会のおじさんたちがいろんなお祭りならではの遊びを用意してくれました。
 町会のおばさんたちは、「やきとり」「おでん」といったお祭りならではの「味」を用意してくれました。事前に各家庭で何本、と注文しておいた分を受け取れ、お祭りの夜に家で食べる「やきとり」「おでん(こんにゃく、はんぺん、ゆで卵で、ゆずの香りの甘味噌を付けたもの)」が楽しみで仕方なかったです。
お祭り以外にも、夏休みのラジオ体操や、町会ぐるみで温泉やプールに遊びに行ったり、本当にいろんな思い出を作ってもらいました。
 聞けば、子供の減った今では、そういった行事は行ってないらしく、たまらなく寂しく感じると同時に、「いい時代に育ててもらったな」と改めて感じるのです。
 

4.中学校時代(1993年~1996年)

 
 1993年になると、小学校を卒業し、港北中学校に進学。知ってる人は知ってるんですが、港北中学校は、山の上にある学校なので、毎日が登山のような通学でした。
 まぁ、今にして考えれば、これだけ運動を全くしない今でも「歩くこと」「坂を登ること」がそこまで苦ではないのは、中学時代にこうして、しっかり足腰を鍛えたおかげじゃないかと思います。
 そのご褒美というわけじゃないですが、通学途中に見える風景とか、学校から見る風景はとてもきれいでしたね。学校からは遠く駒ケ岳まで見えてました。あの雄大な景色の中で育つことができたのも、僕の財産の一つと言えるかもしれません。
 
標高150m以上の尾根の上にある港北中学校(空撮)
 
 中学校では、隣の本輪西小学校や、陣屋小学校の子たちも合流するので、僕たちが通った当時は1学年4クラスありました。やっぱり、出身小学校ごとにちょっとした気風や文化の違いがあって、面白かったですね。
 ちょっとした不良っぽいのがいたりもしましたが、僕たちの中学校は基本的に室蘭市内では、田舎の芋っぽい子たちの学校でした。バリバリのワルもいなければ、ガチガチの秀才やガリ勉もいない。緊張感みたいなものもあまりなく、良く言えばのびのびと育ちましたね。
 
 中学校といえば部活ですが、僕は吹奏楽部に入りました。楽器はチューバ。練習は厳しかったけど、まぁ、もともと音楽が好きだったので、楽しく過ごすことができました。強いて言うなら、2年の時に顧問の先生が事件を起こして辞め、代わりに来た先生が頼りなくて、部内がぐちゃぐちゃになったのがちょっと残念でしたけどね。
 
 で、この吹奏楽なんですが、僕が今でも続けている「箏」にも、とても良い影響がありました。
 西洋音楽の理論、「楽典」を学んだことで、箏で奏でる邦楽にも応用が効いたんです。
 そして、吹奏楽は基本的に合奏するものなので、それをがっちり訓練したことで、「リズム感」と「アンサンブル能力」が身につきました。
 これを得たことで、「箏」「三味線」を弾くことがそれまで以上に楽しくなり、続けられる原動力になったと言えるでしょうね。
 
 あと、僕が「パソコン」に出会ったのも、この頃です。
 実はうちの父が、製鉄所の合理化の影響で、子会社に出向してSEやってた影響もあり、家には割りと早くからパソコンがありました。
 僕はそれで、プログラム言語「N88-BASIC」でいろいろプログラムを作って遊んでました。それもまた、僕の人生を支える柱の一つになってますね。
(つづく?)

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