自分語り ~大学時代まで

Pocket

自分語りの第3夜です。お暇があれば御覧ください。

5.高校時代(1996年~1999年)

 
 実は、僕は中学までは母が勉強を見てくれていたので、そこそこの成績でした。そして、うちの父に、「将来の選択肢を広げるためにも、行っとけ」と言われ、室蘭栄高校の理数科に挑戦。うっかり合格してしまったのが運の尽きでしたね。
 
 母からは、「高校に入ってまでは勉強は見ないよ。自分で勉強しなね。」と言われてたのと、親のプレッシャーから開放された僕は、「自分の興味があること」しか学ばなかったことで、高校時代、大転落を経験します。
 今にして考えると、僕には致命的に「数字のセンス」がない。たぶん、数字を感覚的に掴む能力が無いんでしょうね。なので、小学・中学で習ったとおりの式に当てはめて数字を処理しようとするので、計算間違いしても、間違えてることに気が付けない。数字のセンスがある人なら「こんな結果になるはずがない。おかしい。」と気づく部分で、僕は気づけない。なので、桁上りの計算とかをしようとすると、よく桁間違いをします。「100の100倍」を計算するのに、「1✕1=1に、ゼロを4つ付けるから、えーっと、千かな? 万かな?」ってなもんで、今でもこのレベルの計算をよく間違えます。
 
 こんな調子なので、理数科の数学に付いていけるはずもなく。理数科に進学しながら、数学で1ケタの点数とかを取って、数学の先生を呆れさせてました。
 計算的要素の多い物理・化学もダメだったので、それらの授業は、基本的には睡眠時間。理科系だと生物・地学は興味があったのでそこそこの点数を取ってました。
 逆に高校時代に楽しかった教科は世界史・日本史で、特に世界史は面白かった。ヨーロッパ史にしても、中東史にしても。
 
 部活は、吹奏楽部に入ってましたが、2年の終わりに退部。理由は、なんとなく着いて行けなくなったから。
 いや、適正の問題もあったのか、練習の仕方が悪かったのか、練習してもあまり上達を感じられなくなってきていたのと、部員たちがやけに闘争心バリバリで「◯◯高に負けないぞ」みたいな感じで、コンクール最優先、打倒◯◯高最優先みたいな感じになって行ったのが、着いて行けなかった。
 
 もちろん、僕は何度か発言しました。「音楽は闘争心でやるものではない。人を感動させる演奏が出来て、それがコンクールの審査員の心を動かすことが出来たなら、自然と結果は付いてくる。闘争心で音楽をやったら、攻撃性が音に出て、聞いてる人を傷つける。」と。
 でも、誰も少数意見なんて耳も傾けなかった。青臭い理想論と思われたのでしょうね。
 僕も演奏者の端くれとして、この「闘争心でやる音楽」にこれ以上毒されたくなかったのもあって、吹奏楽部とはここで袂を分かちました。
 
 その後は放課後暇になったので、生徒会に出入りしたり、学校祭に力入れてみたりと、いろいろやってみましたが、やはり超進学校で、勉強を棄ててる生徒っていうのは、「人にあらず」なわけで。まぁ灰色なアウトロー生活を送ってましたね。
 今から考えたら、この高校生活が、割と僕にとって人生初の「挫折」だったと言えるかもしれません。
 
 そんな時期、僕が楽しいと感じてたのは、当時出始めだった、今で言う「ライトノベル」。当時は「ファンタジー小説」なんて呼んでましたけどね。
 当時、うちの親は、僕がバスに乗ろうと、チャリで通おうと、毎月「バス定期券代」を出してくれてました。それで定期を買ってバス通学してもいいし、買わずに自転車通学して、定期代を小遣いの足しにしても良いし、そこは僕に任せてくれてました。
 なので、夏場はチャリ通して、浮いた定期代を本代にして、月5-6冊ペースでライトノベルを読みまくった。
 
 これもまた、僕のその後の人生で、語彙力とか、文章構成力に繋がってると思うので、今振り返ると、大事だったなぁと感じるんですよね。
 

6.大学時代(1999年~2003年)

 
 さて。高校時代、超進学校で勉強せず、落ちこぼれた話は書きました。そうなると、進路にも影を落とします。
 国公立当たり前、私立はMARCH以外落ちこぼれみたいな風潮の高校でしたが、僕は市内の室蘭工大もパスできず、受かった4年制大学は、当時開学2年目だった苫小牧駒澤大学と、神奈川工科大学の2校のみ。
 この2つのどちらに進学するか、ギリギリまで悩みましたが、結局選んだのは苫小牧駒大でした。
 
 理由は、今でも「なんでだろう?」と思います。
 当時、都会への憧れはあったはずなんです。都会での一人暮らし。やってみたくないわけがない。
 でも、選んだのは苫小牧駒大でした。そして、その後もその選択には一切後悔はありませんでした。
 
 今にして考えれば、当時から、無意識化で郷土愛的なものがあって、室蘭から大きく離れないで済む苫小牧を選んだのかもしれませんよね。
 
 そして、この苫駒大への進学は、高校での挫折から僕を立ち直らせてくれる大きなきっかけになりました。
 
 この大学、4年制大学に改組されて2年目の新しい学校だったんです。
 なので、先輩は1個上の1期生のみ。しかも、そこまで無茶なことも言われない。よく聞く「大学のサークルの上下関係」「3年絶対、4年神様」みたいなのは経験しないで来てますね。
 
 大学に入って学んだのが、「国際文化学」。
 ひらたく言えば、世界中の様々な国の文化を学びつつ、共生・共存していくためには、どんな考え方をしていく必要があるのか、を考える学問ですね。
 そうした様々な文化を衝突させないための仕組みである「国際法」や、そのベースとなっている「国際関係」「国際情勢」なども含めて、いろいろ学んだことは今でも自分の糧になってますね。
 
 ここで学んだおかげか、僕は自分の考えが絶対正しいとは思わないですし、相手の言うことが自分の考え方と違っても、頭から否定することは滅多にしなくなりました。
 「何が正しいか」なんてものは、立場や事情が変われば、簡単にひっくり返りますから。正しいかどうか、は実は重要じゃなくて、相手と自分、双方が「受け入れ可能か」という部分を考える思考のクセみたいなものが身についたのが、この大学で学んだことだと思ってます。
 
 大学2年の時には、スパー苫小牧日吉店で、人生初の勤労体験となるバイトを始めました。そこは個人経営のスーパーがスパーに加盟したタイプのお店で、コンビニというより、コンビニ+ミニスーパーでした。生鮮食品も扱ってたんですよね。そこでは、ありがたいことに深夜シフトで入ることが出来たので、結構当時としては稼げたバイトでした。
 
 そうして稼いだお金で、教習所に通い、免許を取ったのもこの年でした。そうして、実家の近所のお家で使わなくなった車があったので、それを格安で譲って頂き、僕の運転人生が始まったというわけです。その最初の車は、カローラ・レビンでした。その車が付けていたナンバーは、実は今でも僕の乗る車に受け継がれてたりします。(と言うとかっこいいけど、覚えるの面倒だから変えないだけ)
 オートマのレビンなんて邪道だ、とよく言われましたけど、まぁよく走る車で助かりました。
 
 3年になると、「このまま興味があるんだか、無いんだかな講義を受けるだけの、受け身のまま大学を終えるのはもったいない」と感じるようになったのと、もっと自分の大学生活を自分で楽しくしたい、と思ったのとで、友人の伝で、僕は学友会執行委員会に入りました。
 学友会とは、高校までの生徒会のようなもので、いわゆる学生の自治組織です。大学祭などの行事を主管していた他、学内の部活や同好会といった学内団体の管理もしていました。
 そして大学祭実行委員を兼務し、大学祭を運営。
 
 その後、なんと僕以外の執行委員会メンバーが全員辞めてしまい、僕が委員長兼副委員長兼会計兼書紀として、一人で学友会を切り盛りすることになってしまいました。僕のイベント運営とか、事務作業スキルの原点は、実はここにありま す。
 僕はPCが使えたので、自分のPCとプリンタを執行委員会室に持ち込んで、業務効率化を進め、行事等がなければ日常的な業務は一人でも回せる状態にはしました。
 
 ただ、一人ではどうにもならなかったのが、4年の時の大学祭です。
 この時には、苦肉の策で、学友会執行委員会と大学祭実行委員会を別組織にして、「学友会は嫌だけど、大学祭なら手伝ってもいいよ。」という後輩たちを集めることに成功し、なんとか乗り切ることが出来ました。
 
 この時のチームが、これまで僕が属したチームの中では、今でも最強だったと思ってます。あのメンバーが再び集ったら、たぶん、できないことはないだろうなぁ、と思えるくらい。
 まぁ、当時のメンバーもそれぞれ今は家庭を持ったり、それぞれ仕事を持ったりしてて、もうたぶん一緒に何かを作り上げることはないだろうとは思うけど、今でも、「こんな時、あのときのメンバーだったらどう解決するかな?」とか思ったりするのです。
 
 さて。大学4年間ですが、実は一人暮らしをしていました。
 JR錦岡駅のすぐ目の前にある1DKのアパートで、自炊生活。
 
 僕らの世代は、上の世代と違って男子も家庭科教育を受けてる世代なので、基本的な家事はできるのが強みですよね。
 ただ、やはり「お金の管理」「家事」そして、「時間の管理」。これらを全て自分でやるというのは、どこまでも自由な反面、全て自己責任で、今となってはそれが当たり前になりましたが、当時としては、やはり「親のありがたみを改めて感じた」という側面もありましたね。
(つづく)

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA