コメと農業について感じること

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 コメの価格が大きな注目を浴びています。
 かつて、多くの日本人が「農家出身」でした。でも、高度経済成長期に地方から都市への移動が起きて、そこからもう半世紀。今、社会の主流となっている人たちが農業を知らない世代になっていること。その中で、「コメの価格」という流通の末端にしか光が当たらなくなっていること。そして、そんな「農業を知らない人たち」の世論によって進められようとしている変革に「大丈夫かな?」という思いが強いです。
 これまで良かれと思って進められてきた農業政策を根本から再検証する必要があるんじゃないかな? と思うんです。

 一例を上げると、現在の農業の基礎になったのが、戦後GHQ主導で行われた農地解放です。それまでは、農地の多くを江戸時代以来の大地主が所有し、多くの農業従事者は「小作人」として、地主に多くの地代を払って耕作してました。
その形態が「民主的ではない」「封建的である」として、地主から土地を取り上げ、小分けにして小作人を土地所有者にしていった。それが戦後の農地改革です。

 一見、「自作農」を増やして、農村の民主化につなげた好事例に見えますが、今あらためて見返してみると、違う視点が見えてきます。
 産業とは、大規模化することで安定します。特に農業のような自然相手のリスクが大きな産業は、規模を大きくして、「A地区が不作でもB地区のアガリで全体の収支は合う」みたいなのを大規模にやる必要があります。そういった、いわば集団安全保障の仕組みを提供してきたのが農協なわけですが、「自立した事業体」である「農家」と、その組合である「農協」という構図が長いこと維持されたことは、農家の企業化・大規模化を阻んできました。家族経営が当たり前の脆弱な経営基盤が残され、企業による農業参入が阻害されてきました。

 極端な話を許して頂きたいのですが、経営の才覚があるか否かに関わらず、農家の長男に生まれた人は無条件で「農家の経営者」になる、ということがまかり通ってます。それが日本の農業の発展を著しく阻害している。その根っこは、戦後の農地改革と、そこから続く農地売買の制限にあるんじゃないかと思うんです。

 例えば、戦後の農地改革のときに、小作人に無条件で土地を与えるのではなく、「大地主の従業員として、企業の従業員同様に労働法規の中に組み込む」といった形で所得保障をしてあげていたら、今のようにむやみに農地を小規模化することなく、大規模なまま今に残せて、効率化できたのではないか? とも思うんです。

 また、米の価格決定プロセスについても、市場原理に任せているから、際限なく価格が上がるとも言えます。
 かつて日本には、食管法という法律があり、生産された米は原則国が全量買い上げ、それを国民に直接販売する、という形がとられていました。価格も当然国が決めていました。
 それを徐々に自由化し、今の市場取引に変わってきています。
 果たして、日本人の主食であり、食の基本である米を、安易に市場原理に任せて良かったのか? という疑問が出てくるのです。
 例えば、一気に政府流通を止めるのではなく、「ベースとなる、庶民が普段食べる安価な政府流通米」を国がコントロールして提供する。同時に、「無農薬・有機栽培やブランド米等、こだわって作った高付加価値な自主流通米」は民間・市場がコントロールして提供する。こんな2方面作戦でも良かったのでは? とも思うんです。

 どちらも、旧制度の良いところは残しつつ、新制度を入れればこんなことにはならなかったのでは? と思うんです。
 それをせず、旧制度を残さずに、ガラッと新制度に変えてしまった弊害が出てきているんじゃないかと思えてなりません。

 そこは僕たち国民の責任もあると思ってます。僕達国民はとかく、「目に見える変化」を求めがちです。旧制度の一部が残ってると、「既得権の温存」に見えて攻撃しがちです。
 でも、この歳になって感じるのは、「ゼロベースの変化」はリスクだということ。現状うまくいっているベースラインがあるなら、そのベースラインを元に、問題があるところを改善していく。そうすると、ぱっと見変わってないように思えても、少しずつ良くなっていきます。もともと日本人はそういう変化の仕方を得意としていたはずだし、欧米型の「前任者否定・ゼロベースでの変化」を志向するようになって、この30年を超える停滞に突入したようにも思えます。

 今考えるべきは、かつての制度で、現状を改善するきっかけになりそうなものがあるなら、躊躇わずに活用することではないかな、と思ってますし、今般政府が備蓄米を政府流通に近い形で消費者に届けようとしていることが、成功するといいな、と思ってます。

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