自分語り ~大学時代のこと

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自分語り 第4夜です。お暇でしたらどうぞ。
 

 

7. 母のこと

 僕の母は、僕が大学4年の時に急死しました。
 
 このクソ重い話を、どのタイミングで混ぜ込むか迷いましたが、暗い話で終わるより、暗い話から始まって、明るく終わった方が読後感が良いかと思い、ここに書くことになりました。
 
 うちの母は、精神的には結構前向きでタフな人でしたが、体力的にはそこまで強くない人でした。
 30歳の時には肝炎を患い、40歳の時にはクモ膜下出血で倒れ、それでも元気に回復して過ごしてたんですが、48歳の時に自宅で急死しました。
 
 本人は、クモ膜下出血から回復して以降、「あの時死んだと思えば、あとの人生はオマケみたいなもんよ。」なんて言ってましたけど。まさか本当に、こんなに早くいなくなると思ってなかったので、まぁ驚いたというか、まだ信じられないというか。
 
 母が亡くなったのは、先述した大学4年の大学祭の前日でした。
 当時、うちの父は東京に長期出張中で、母は実家で一人で過ごしてました。そして、「息子が頑張った大学祭を見に行くから、何が何でも帰ってこい」とうちの父に言ったそうで。
 そんな言葉に負けて帰宅した父を待っていたのは、冷たくなった母だったというわけ。
 
 その日の朝、僕は母から電話を受けてました。
 大学祭に遊びに行くから、頑張りなさいね、と。それが僕が聞いた最後の母の声でした。
 その電話から数時間後、母は亡くなっていたのです。
 
 父から一報をもらった時には、僕は大学祭パンフレットの誤植修正作業中でした。次の日までに修正しきらないといけない、と。気合を入れ直していたタイミングでの凶報。
 
 そこからは、大学祭のことは仲間たちに託して、帰郷。葬儀を出して、大学に戻って来られたのは初七日を終えた後でした。
 
 それからもう、20年が経ちました。
 あと数年すると、僕の人生で、母のいた期間よりも、母のいない期間の方が長くなるんだなぁ、としみじみ思います。
 まぁ、でもあの人のことだから、きっと僕の周りに常にいて、見守ってくれてるんだろうなぁ、と思います。
 
 ちなみに、脳血管疾患は遺伝性があることが知られてますが、うちの母方の家系がまさにそれで。
 母がクモ膜下出血をやった直後、念のためと検査を受けた伯母(母の姉)も脳動脈瘤が見つかり手術。
 話を聞いたら、母方の大叔母(祖母の妹)もクモ膜下出血で亡くなってるそうで、まぁそういう星の下に僕も生まれてるんだろうな、と。
 
 母がクモ膜下出血で倒れたのは40歳の時。
 今、僕は42歳。そろそろ、脳ドックとか受けておかないとまずいかもしれないなぁ、と思うこのごろです。
 

8.就職氷河期のこと

 
 さて、そんな僕が大学卒業を迎えた2003年頃は、いわゆる「就職氷河期」の末期でした。
 エントリーシートや履歴書を何十枚も書くのが当たり前の時代。でも、僕はちょっとナメていたのと、僕の悪いクセが出たのとで、自分が興味のある業界しか受けてませんでした。
 
 その業界というのが、コンビニ業界。
 僕が大学2年からコンビニでバイトをしていたのは先述しましたが、そこで働くうちに、コンビニ業界に興味が生まれ、全国大手から、道内大手まで何社もコンビニ本部を受けました。中には最終面接まで行った会社もあったものの、結局この業界はすべてアウト。
 
 その後、どうしたもんかと考えつつ、また地元思考で行こうと、苫小牧の企業数社を受けていた時に、たまたま進路指導室から連絡が入ったのでした。
 何かと言うと、某IT関連機器卸の会社が、当時割と右肩上がりに成長してて、道内のいろんな大学にアプローチかけて社員を大量採用してたんです。その会社が、うちの大学に「学校推薦」の枠をくれたそうで、僕に「良かったら受けてみないか」と打診があったのです。
 
 僕がPCを使うことは学内では知られてましたし、インターンシップでもシステム開発会社に行ったりしてましたので、「この学年でPCに強いといえば、山田だろう」という評判が、教授方の間でも、職員の間でも広まってたようで、そこからの声がけでした。
 
 当時、僕は、自分の趣味に過ぎないPCの知識が、本物のIT業界で通用するわけがないと思っていて、就職活動においてもわざとターゲットから外してました。
 でも結果、僕はこの会社に拾われ、思いがけず早めに就職活動を終えることができたのです。
 
 僕が4年の時に大学祭などに全力を注げたのは、まさに、早めに就職活動を終えられたからに他なりません。そういう意味でも、この「救いの手」は、僕の人生を大きく左右した出来事だったと言えるかもしれません。
 

9.インターネットのこと

 
 僕が本格的にインターネットの世界に飛び込んだのも、大学時代でした。
 ネット自体は、高校時代から使っていたけど、当時はダイヤルアップでしたから、ネットを繋げればつなげるほど電話代がかさみ、他からの電話がかからなくなり、親に怒られたので、あまり長時間は遊ぶことができませんでした。
 でも、大学のPCで常時ネットに接続できるようになってからは、大学の講義の空いた時間などはずっと、図書館にあった、誰でも自由に使えるPCを占拠して、ネットの世界を楽しんでいましたね。
 そして、「フレッツISDN」がサービス開始になって、自宅でも24時間常時接続が当たり前の時代になると、ますます僕はネットの世界にのめり込みます。
 
 当時、「Webチャット」というものが全盛期を迎えていて。今で言うグループチャットみたいな感じだったんですが、そこで多くの人との繋がりができ、オフ会をしたりもしましたね。
 その頃のつながりが、今でも一部SNS上で生きてたりします。今では、ネットでつながる人脈って普通ですけど、当時は結構奇異の目で見られたりもしましたね。
 

10.お箏のこと 苫小牧の稽古場のこと

 
僕が子供の頃からやっていたお箏ですが、子供の頃からずっと習っている先生が、苫小牧にも週1回出稽古に来ていたので、僕は大学時代、苫小牧の稽古場に通っていました。
室蘭の稽古場は、曜日が火曜日と金曜日の2日あって、しかもお弟子さんもずいぶん減ってたので、兄弟弟子に合うことはほとんど無かったんですが、苫小牧の稽古場は週1回しかない上、お弟子さんも8人くらいいたので、スケジュールも朝から夕方までみっちりで、前の順番の人、後の順番の人とはいつも顔をあわせてました。
時には先生に言われて、稽古の相手役として合奏したりもして。あれでずいぶん鍛えられたと今にして思いますね。
そんな苫小牧の稽古場は笑い声が絶えず、毎週行くのが楽しみになるほど楽しいひとときでした。
 
(つづく)

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