ちょっと間が空きましたが、自分語り第5夜です。
11.社会人になって。札幌編
さて。僕が社会人になったのが、今からちょうど20年前の2003年。前述した、IT関連機器卸の商社に就職し、初任地が札幌でした。
僕は一応、技術者枠での配属ということで、営業部の札幌支店ではなく、東日本ソリューションビジネス課という部署に配属になりました。この部署は、通常のルーチンで売れる商品ではない商品、提案が必要だったり、顧客の要望に応じてカスタマイズが必要な商品の提案支援を行う部署でした。
そこで僕は新人研修として、最初の2ヶ月を札幌支店で営業として、次の2ヶ月をシステム開発をやってた関連会社のメンバーとして、次の2ヶ月は自部署の「見積センター」と呼ばれてた、東北・北海道の各支店の営業から「手間のかかる見積り」の依頼を受けて代行するチームのメンバーとして働き、下半期からは正式配属ということで、マイクロソフト社のライセンス製品のラウンダーとして全道のお客様先を訪問したり、帯広支店に月2回ほど駐在して営業支援をしたりして半年を過ごしました。
この時期、僕が住んでいたのが豊平区。当時この会社では、2LDKや3LDKの賃貸マンションを会社が借り上げて、そこに独身社員2名を放り込むのを独身寮制度として持っていました。僕が暮らしたのもそんな寮の一つ。
当時の僕はあまりコミュニケーションに積極的ではなかったので、同室の先輩と職場外で話すことはほぼ無かったです。
この頃にも、箏と三味線の稽古のために月2回室蘭に帰っていたので、時には室工大卒の同期を乗せて帰ったりもしてましたね。
そうそう。札幌支店配属の同期が僕含めて3人いて、ずいぶんと仲良くさせてもらいました。
人間関係で言えば、札幌支店の先輩方にもずいぶんと恵まれました。
最初の配属地ですので、いわば「僕を学生から社会人にしてくれた支店」が札幌支店だったわけです。
当時の札幌支店は、社員20名前後の規模で、北海道・東北の各支店・営業所から構成される「東日本営業部」のうち、北海道を統括する大きな支店でした。
昭和的な新人教育方針もまだ残ってましたから、新人は朝早く出社して、掃除は清掃業者が入ってたので僕らはやらなくて良かったですが、事務所内全てのプリンタの用紙補給、夜間届いていたFAXの配布などの作業をしていました。
昭和的な新人教育方針もまだ残ってましたから、新人は朝早く出社して、掃除は清掃業者が入ってたので僕らはやらなくて良かったですが、事務所内全てのプリンタの用紙補給、夜間届いていたFAXの配布などの作業をしていました。
そして9時の始業からは、当時ものすごい数の電話がかかってたので、ただひたすら電話を取るのが仕事。一日100やそこらは取ってたんじゃないかなぁ。
最初は、相手の会社や名前を聞いて、先輩社員に取り次ぐだけ。2-3週間もしたら、価格や納期の回答、見積書の作成とかもやらせてもらうようになりました。
価格の調べ方、納期の調べ方、見積の作り方、みんな教えてもらいました。
でも、以前教わったことを2回目聞きに行った時の怖さったらありませんでした。教育係が10歳くらい上の女性社員だったんですが、その先輩の怖いかったこと。(笑) 運悪く忙しい時間帯にその先輩に話しかけると、ほんと怖かったですね。
「それ前に教えたよね? なんでわからないの?」
「聞いたことはメモ取れって言ったよね? なんで取ってないの?」
「取ってたって言っても、後から見返してわからないんでしょ? それは取ったとは言わないの。」
「先輩はみんな、仕事してるんだよ。それで稼いでるんだよ。その稼ぎであんたたちの給料も払ってるの。その手を止めるって、どういうことかわかってる?」
「わかったら、一度聞いたことは次から確実に自分でできるように、ちゃんとメモを取って、わからないことはその時にその場で確認すること。いい?」
今の若者だったら、パワハラだと言いそうですけど。
この教えは、社会人20年やってきた今でも、とても大事だったと思いますし、僕は今でも新しい仕事を覚える時は、一度聞いたことは二度と聞かなくていいように、がっちり確認してメモを残す習慣が付いてます。で、どうしてもわからなくて二度目聞きに行くときは、「前に聞いてたのにごめんなさい。」と一言付け加えてしまいます。
あと、この言葉にも含まれていた、「自分に教えるために相手の手を止めさせるということは、それだけ会社の利益を減らしていることに他ならない」という、原価意識のベースになるような部分を刷り込んでもらったことも大事でしたね。まさに「時は金なり」を体感した出来事でした。
その先輩は、入社から年月が経って、異動を繰り返した後に、出張とかで札幌支店に行くと、「あ、おかえりー!」って声をかけてくれるくらいに親しみを感じるお姉ちゃんになりましたが。(笑) ほんと、この先輩にはお世話になりすぎて、今でも頭が上がりません。
この当時は、まだ今ほど「働き方」に対する意識がどこも高くなかった時代で、もう時効だと思うので書きますが、18時に留守電入るまでは、とにかくひっきりなしにかかってくる電話と、これまたひっきりなしに流れてくるFAXの対応。
19時過ぎまでその対応にかかって、営業会議とか、新製品の説明会・研修会なんかは19時半とか20時からセットされるのが普通でした。そこから1時間なり2時間なり研修とか説明を聞くと、21時半とか22時ですよね。そこからさらに残務を片付けて、当時は基幹システムが日次バッチのために24時で停止したので、それでようやく仕事が終わる、という感じでした。
新人の頃はさすがに、もう少し早く帰らせてもらってましたが、それでも21時22時が当たり前でしたね。
その後に行った「見積センター」での体験は、とても重要で、その後の前職での僕の運命を決めたと言っても過言ではありませんでした。
当時、この会社が扱ってたものは、ITに関連する、あらゆるメーカーのあらゆる商品だったんですが、それでも、結構な頻度でお客様から、うちの商品データベースに登録されてない商品のご相談を頂いてました。聞いたこともないメーカーの、聞いたことのない電子部品とか。そういうのの仕入先を探して、見積を取って、それを支店に回答する業務だったり。
あと、後々に繋がったのは、サーバーやビジネスPCの構成支援です。サーバーやビジネスPCは、お客様の必要とするスペックをもとにカスタマイズをして販売します。その「お客様の要望」をもとに「カスタマイズした見積」に落とし込むところが僕らの仕事でした。
僕は学生時代からPCの自作をしていたので、この「カスタマイズ」に関する要素の知識はもともと持ってました。CPUだの、メモリだの、HDDだのというコンピュータを構成する要素はわかってたんですね。なので、この部分はかなり早く、正確に見積を組むことができました。後から聞いた話ですが、それが北海道・東北の各支店・営業所でちょっと評判になってたようで、2ヶ月の研修を終えて見積センターを離れる時には、当時の仙台支店にいた先輩社員(怖いと評判だった)から、「助かってたのに・・・。もう少し見積センターにいてくれよ。」なんて、社交辞令だったかもしれませんが、そんな言葉を頂いたこともありました。嬉しかったですね。
このあと2年間帯広支店に勤務した後、東京で立ち上がる新部署に何故か大抜擢で僕が呼ばれて東京に異動したんですが、その背景には、どうもこの「見積センター」時代の仕事ぶりを評価されての人事だったらしい、と後から聞きました。
僕の人生、基本的に「お天道様が見てござる」じゃないですけど、「どこかで、僕の働きぶりを見てくれていた人が、後で困った時に救い上げてくれる」みたいな繰り返しなんですが、この頃からすでにそうでしたね。
就活中に、希望の企業全部落ちて困ってた時に、僕の普段の活動を見てた教授たちや就職課の方たちが僕に学校推薦の話をくれたり。
就職した後も、どこかで僕の働きぶりを見てた人が、こうして拾ってくれたり。ほんと、頑張っている姿は、どこかで必ず誰かが見てくれている、というのは僕のこれまでの人生で強く強く感じてることです。だから、決してやることについて手を抜いてはいけない、とつくづく感じるんですよね。
<つづく>