自分語り ~帯広支店時代

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また少し間が空きましたが、自分語り・第6夜です。
 
 

12. 帯広時代

 就職して1年。ようやく仕事にも慣れてきた2004年春。
 僕の所属していた、東日本ソリューションビジネス課が廃止となり、属していたメンバーは東北・北海道の各支店に配属されることになりました。
 僕が配属されたのは、道東の帯広支店。
 当時、函館と旭川は営業所で、札幌支店の出先の扱いでしたが、北海道の東半分を見ていた帯広は独立した支店でした。その支店に、僕は「ソリューション担当」ということで異動しました。
 
 帯広での一年目は、札幌時代と同じく、2LDKの物件に先輩と2人で住むスタイルの独身寮でしたが、この時の先輩はとても面倒見がよくて、自分からはなかなかコミュニケーションを取らない僕を気にかけて、メシに連れ出してくれたり、いろいろ世話を焼いてもらいました。
 また、当時の帯広支店は支店長含め7名と少数精鋭の体制で、家族的な雰囲気のある支店でした。
 昼には、男性社員4名で仲良く食べに出かけました。支店近くのスリランカカレーの店とか、和定食の店とか、ホテルのランチバイキングとか、よく行きましたね。
 飲みにもよく行きました。当時、十勝ビール園もあったし、「北の屋台」が始まったばかりで、楽しい屋台が何件もありました。若鶏の「鳥せい」で、男性社員5人で、ものすごい量食べたこともありました。楽しかった・・・。
 
 その当時、上司だった係長がまた面白い人で、当時のこの会社としては結構年長の部類の40代。その長い人生経験と仕事観には、僕も随分影響を受けました。
 いやね。この会社、僕が入社した当時は、東証・大証一部上場でグループ全体の社員数が1200人くらいの会社だったんですが、その平均年齢が28歳とかだったんです。今にしたら考えられないですよね。今の僕くらいの年齢の人たちが支店長とか、どうかすると副部長で。若い支店長だと30台半ばで支店長でした。そんな中での40代係長というのは、社内では結構異色だったんですよね。
 その係長は、割と歯に衣着せぬ言動をする人で、悪く言えば口の悪い、でも不思議な魅力でいろんなお客さんを捕まえていく、いわゆる「天性の人タラシ」ともいうべきタイプでした。
 今、40歳を超えた僕が、人タラシかどうかはともかく、歯に衣着せぬ言動で、本音で相手の懐に切り込んでいくスタイルを好むのは、この係長の影響が大きいと思ってます。
 
 そんな帯広支店で、最初の一年は技術担当として、複雑なシステム案件とかの時に営業に同行してお客さんから話を聞いて商品選定をしたり、会社として取り組む新しい商品を提案したり、といった活動をしてました。
 当時の僕の実績といえば、某ホテルの客室でのインターネット提供設備の提案だったり、某空港でのフリーWi-Fiの提案だったり。
 そして、この会社では、学卒は2年目、院卒は1年目に「研究発表」というのを、昇級試験に変えて行ってたのですが、これの題材のしたのも、この商談だったりしました。結果、何か賞を頂いた記憶がありますが、忘れてしまいましたね。
 
 そんなこんなで迎えた帯広2年目の2005年、「営業の経験も必要だろう」ということで、少ないながら売上目標と担当顧客を持たされて、営業としても仕事をするようになりました。これが僕の人生で唯一の営業経験なんですが、数字を持つということ、数字を達成させるということ、そのために努力をするということ、学ぶことがとても多かったと感じますね。
 
 あと、帯広時代の2年間も、変わらず月2回は箏と三味線の稽古のために室蘭に通ってました。毎回、日勝峠越えの、片道280キロの行程を月2回やってたんですね。この頃は人生で一番運転してた頃かもしれません。
 そんな僕の愛車は、赤いカローラ・ランクス(Zエアロツアラー TRDスポーツM)で、6速MTでした。この車は、当然ですがいい車でしたね。パワーがあったので、どんな坂道でも、他の車に加速で負けることは無かったですし。MTなので、うまく運転してやれば、そこまで燃費も悪くなかったし。こういう車での月2回での峠攻めは、走り屋のつもりはありませんでしたが、楽しかったですね。
 
 そうして迎えた2006年4月。
 転機は、一本の電話とともにやってきました。
 最初は、普段札幌支店にいる副部長から、「明日札幌に来い」というもの。でも、細かなことは覚えてないのですが、当時業務が立て込んでて、とても次の日に出張できる状況ではなかったのです。
 そこで、電話での話ということになりましたが、そこで聞かされたのが、東京への異動だったのです。
 
 当時、パソコンの国内出荷首位こそ、この会社が取ってましたが、サーバーの販売には、各地の営業も苦手意識が強く、会社として組織立てての対応を取ることになり、前年にIBMとの協業による構成見積支援+技術支援チームが立ち上がって、一定の成果を上げていました。
 
 もともとNEC販売特約店首位だったこの会社が次に選んだサーバーメーカーは、NECだったというわけです。
 NECとは、NECから3名、うちの会社から3名の6名体制で新チームを立ち上げ、NEC製サーバーの販売テコ入れを図ることとなり、うちの会社から出る3名のうちの1名に、何故か僕が選ばれたという話でした。
 
 最初、僕はこの異動を渋りました。帯広というまちをある程度気に入っていたのと、北海道から離れたくないという気持ちが、やはり強かったんですよね。
 でも、「それを断るなんてとんでもない」って感じで副部長からも支店長からも説得され、渋々異動を受けることに決めたのでした。
 生まれてから25年ちょっとで、初めて道外に住むことになりました。
(つづく)

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