Intermezzo:旅の意味

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ここまで写真と行程を並べることで精一杯だったので、ここで一度この旅を振り返ってみたいと思う。
まぁ、旅の意味なんて、所詮は後付けの理屈でしかないわけで。
旅をしようと思った時も、旅してる間も、その意味なんて考えたこともないけど。

むしろ、意味も意義も求めないのが今回の旅のテーマだったりもしたんだけど。
旅を終えた今、旅して得たものを僕なりにまとめておきたいと思う。

先を急ぐ方、写真だけ見たい方はこの記事飛ばして次の記事見て下さい。

「何があったっけ? まっ、魚介類は美味いよな… 後は牛乳とか??」
「何もないのがいいんだよ! ごみごみした都会に疲れた心が癒されるのを感じるわ。(笑)」

これ、実は稚内駅に着いた時にFaceBookで交わされたやりとり。相手は同じ北海道出身の同期。

やはり旅行って普通は、美味しいものや観光地を求めて行くものなのかな?
って考えると、今回の僕の一人旅は普通ではないことになる。

今回の、というよりも、いつも、かもしれない。
僕は基本的に人のいない方へ向かう。そして、人工物の無い景色を求める。
人も、人工物も、見飽きた。

なんのことはない他愛もないやりとりだったけど、このやりとりの中に、僕の今回の旅の目的があったのかもしれない。

僕は都会での生活に疲れていたのかもしれない。
旅を終えて今気づくことは、旅する前の僕は、あまりにもぎすぎすして、それでなくともちっぽけな僕が、ますます小さく小さく、小さなこだわりで固まりきってたと感じる。

人間は、人間と、人間が創り出したものだけに囲まれて生きていると、良くないと思う。
人間だけが全てだと。人間が世界の中心で、人間が世界の全てなんだと錯覚する。
特段そうと認識してなくても、これはもう無意識下にそう思い込んでる。

その結果が、昨今ニュースを賑わせてる「野生動物に名前を付ける行為」や「自然を全て観光地、つまり人間に娯楽を提供するものでしかないと認識する」ことに繋がる。

それが自然保護を叫びつつ自然を自分たちの都合のいいように改変する行為へとつながっていく。

人間が、世界の中心だと思い込むことの危険性。
その事は僕だって十分認識してたはずなのに。いつの間にか自分がそうなってたかもしれない。
そのことに気づいただけで、この旅には大きな意義があったと思う。

2日目にレンタカーを借りて、何もない景色を求めてサロベツ原野を走り抜けたのは、
実はそんな自分への反動だったのかもしれない、と思う。

実は何もないというのがそもそも人間の傲慢で、海もあれば、川もある。山もある。すべてのものがある。
人工物は、ほとんどない。当たり前だ。人間は自然の中のごくごく一部のちっぽけな存在なのだから。

そして3日目。
紀行文はこれからだけど。さらに人間の小ささと、大地の大きさを感じることになりました。
同時に、自分はこの大地で生まれ、育った、この大地に属する道産子なんだって原点を取り戻しました。

人間同士の競い合いや諍いなど、ちっぽけなものです。
人間の創りだしたものなど、全ては所詮ひとときの虚構。
そんなものにいちいち心乱される必要はない。と気づきました。

長文失礼しました。
紀行文の続きは、今晩にでも書きますね。お待ちください。

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