旅すること。

Pocket

Img_20151011_124628

現在、一人旅を決行中です。
旅行記はあとでまとめるとして、今感じてることを書き留めておきたい。

いろんな旅の仕方があるけど。
目的地と目的地を最短経路でぴぴっと繋いで、目的地だけを見て満足して帰る。
そういう旅は僕は好きではない。

限られた日程の中ではあるけど。
公共交通機関を利用して、自分の足で歩いて。
できれば「歩く速度」で行った先を見て、聞いて、感じて回りたい。

いつからこんな風に感じるようになったんだろう、と考えてみると、たぶん自分の生まれ故郷の室蘭市を、車に頼らず自分の足で歩き回るようになってからだと思う。

生まれ育ったまちだから、隅々まで知ってるつもりだった。
だけど、自分の足で歩いて見たら、今まで見落としていたものが山ほど出て来た。
今まで、車で目的地から目的地までをショートカットしてきた、その弊害。

そして、自分の足で歩くことで、歴史を感じることができることを知った。
考えれば、人が車で走り回るようになってたかだか数十年。
その前は、数百年にわたって人は自分の足で歩いて来たんだ。
まちからまちへは汽車やバスで移動し、まちの中は歩いたんだ。

まちは、もともと人が歩いて暮らせるように設計されてるんだ。
そこに車が割り込んできたのは、それこそここ数十年の話。
そして、それがまちを壊してきた。

立派な広い道路ができて、昔ながらの街並みが壊された。
駐車場が無いからという理由で昔ながらの街並みに人が来なくなった。

話を戻す。
先人たちの歩みを辿ることを旅の楽しみにしている僕にとっては、
先人たちと同じ目線、同じ道筋をたどることがとても大切。

だから、わざわざお金のかかる鉄道を選ぶ。
だから、わざわざ時間をかけて自分の足で歩く。

だからこそ、見えてくるものがある。車のスピードだと通りすぎて見落としてしまうものと出会うことができる。それが僕の旅なんだとつくづく思う。

今回は、留萌本線を利用した。
どうしてこの線路は建設されたのか。
どうしてこの線路は今、不要なものとの烙印を押されようとしているのか。
この線路が繋いできた人々の暮らしとは何だったのか。

たぶん、それはレンタカーで高速道路を走ってきたのでは感じられないはず。

留萌本線はもともと、留萌炭田の石炭を運ぶために敷設されたらしい。
ということは、官営幌内鉄道や室蘭鉄道と同じ背景だ。

留萌港も、石炭の積み出しの為に開削されたらしい。
そういう意味では、小樽港や室蘭港と同じだ。

明日は、札沼線に乗る予定でいる。
この路線は、また違った背景で敷設された鉄道だと思う。
そこには、おそらく石狩川という、今なら簡単に橋をかけて渡れる川。
だけど、かつては越えるに越えられない川だったであろう川。
そんな石狩川の存在が背景にあると思う。
それを感じてみようと思う。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA