アルマーニ制服のこと。

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ここ数日、世間を賑わせている「アルマーニ制服」の件について、ちょっとした気付きがあったので書き留めておきたい。

事件としては、東京都中央区の公立小学校が、総額9万円もかかるようなアルマーニ製の「標準服(実質は制服)」の導入を決めたというもの。

これに対して、公立小学校に9万円の制服が必要なのか。義務教育なのに、教育を受ける権利、教育を受けさせる義務に抵触するのでは? という批判が全国から寄せられ、大騒ぎになっているのは周知のとおり。

で、僕が気づいたこと。
東京の多くの公立小学校は、その他の地域の公立小学校とは違う。

だから、僕達が考える公立小学校のイメージで考えてこの問題を論じると、たぶん判断を誤る。ということ。

実質「私立」の公立小学校

一言で言えば、見出しのとおり。
何を言っているかと言うと、実は東京都内の多くの区では、公立小学校に通うのは、必ずしもその「校区」の児童ではない。

東京都内の多くの区では、小中学校の自由選択制が採られている。
つまり、全国の多くの地域(もちろん僕の住む室蘭市も含む)のように、住んでいる場所に応じて小学校・中学校は自動的(強制的、とも言う)に決まるのではなく、「保護者が子供を通わせる公立小学校を選ぶことができる」ということ。

こうなると、どうなるのか。
公立小学校であっても、学校の評判やブランドによっては希望者が減り、存続できなくなる恐れがある。つまり、公立小学校も熾烈な生き残り競争に巻き込まれている、ということが言える。

選択制における公立学校の生き残り戦略

そのような中で、この校長は近年、この小学校のブランドイメージ向上に取り組んできた様子が伺え、今回の高級ブランド標準服の採用もその延長線上にあることがわかる。この小学校に「銀座の名門校」としてのブランドイメージを付加し、児童の囲い込みを図る戦略だったのだと思う。

競争で勝ち抜くには、ターゲットを明確にして、そこに向けたマーケティングを仕掛けることが必要。この場合のターゲットは富裕層で、そこに向けたプロモーションの一環として、今回の騒動があったのだと考えると辻褄が合う。

そう考えたら私立学校も真っ青なブランド戦略に走る構図もわかりやすい。

「学ぶ機会の剥奪」ではない

選択性である以上は、保護者は学校を選ぶ権利がある。

そんなブランド標準服を着せないと通えないような学校には通わせない。もっと普通の小学校に通わせたい、と考えるなら選択肢はあるのが東京という場所。

だったら、9万円の標準服が不満ならこの小学校を選ばないという自由を行使すればいいし、いや我が子はそれだけのブランドに値する子だと考えるなら、あえてここを選ぶという自由もある。

今回問題があったとすれば、すでにこの学校に通う児童への配慮が足りなかったことと、「この学校はそういう上流階級向けの学校である」「お嬢様・お坊ちゃま学校である」というブランドイメージが定着しないままに進めてしまったことではないかと思う。

そこを考えた場合に、今の世の中の指摘しているポイントは微妙にズレてるんじゃないかなぁ、と感じたところです。

公立教育とは? 考える機会に

ただ、そもそも論として、区内とは言え公立学校を自由に選べる制度が「必要なのか?」というのは個人的に思うところ。

小中学校の子どもたちは、「地域で育てる」「地域人として育てる」ことが肝要と考えているからでして。これを地域から切り離してしまうと、ちゃんとした土台を持たない根無し草のような人材しか育たないのでは? と思ってしまうのです。まぁ、実際どうかは10年後20年後にわかるでしょうけどね。。

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