キリスト教とローマ帝国

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 先日、Facebookで「牧師と神父の違い」なる記事を見つけた。その記事では、牧師と神父の違いから、カトリックとプロテスタントの違いに導いて、ざっくりと説明していた。

 世界三大宗教の一つ、キリスト教。日本人にとっては、クリスマスなどもあり、仏教・神道に次いで身近なはずの宗教だが、その宗派やたどってきた歴史についてはあまり知られてないように思う。僕も、高校の時に世界史を学ぶ中でなんとなく整理してきたのが実情。いい機会なので一度、整理しておきたい。

 キリスト教を考える時に、もう一つ関連して整理したいものがある。それがタイトルにもある「ローマ帝国」だ。多くの人にとっては、古代ヨーロッパに存在した超大国・・・くらいの認識しか無いのではないだろうか。

 でも、ローマ帝国の後継を自認する国が現在も存在しているとしたら? ローマ帝国が実は近代まで存続していたとしたら?
 そんなローマ帝国の歴史を、その象徴である「双頭の鷲」「単頭の鷲」の紋章も絡めながら紹介したい。

 なお、本稿は僕が独自に調査し整理したもので、「絵的なわかりやすさ」「流れとしてのわかりやすさ」を基準に整理している。場面によっては乱暴すぎるこじつけや、雑すぎる整理があろうかと思うがご容赦頂きたい。
 明確な誤りがあれば、ご指摘をお願いして、本稿に入りたいと思う。

古代、ユダヤ教の一派として成立したキリスト教

 キリスト教を開いたのはイエス・キリスト。
 それは小学生でも知っている事実かもしれない。

 キリスト教を語る時には、他の2つの宗教についても語る必要がある。1つ目はキリスト教の母体となった宗教、ユダヤ教である。もう一つは、ユダヤ教とキリスト教の影響を受けて後年生まれたイスラム教だ。
 実は、この3つの宗教は「アブラハムの宗教」と総称される。世界を創造した唯一の神を信仰対象とする点において、実はこの3つの宗教は「同じ宗教」と言ってもいいかもしれない。

 この3宗教で最も古いのがユダヤ教。紀元前1280年、ヘブライ人(後のユダヤ人)を率いてエジプトを脱出したモーゼが、唯一神より十戒を授かったことから始まる宗教である。

 歴史人物としてのイエス・キリストもユダヤ人と言われており、西暦元年に生まれたとされる。多くの人を、その教えと奇跡で救ったが、やがてローマに捕らえられ、ゴルゴダの地で磔刑に処された後、復活を遂げ、信仰対象になった。
 このイエスを「唯一神」と同一である救世主と位置づけたのがキリスト教。イエスは神の言葉を伝えた人間(預言者)に過ぎなかったとするユダヤ教でまず宗教が分かれた。

 ユダヤ教を国教とするユダヤ人の国は、紀元27年頃ローマ帝国に併合され、ユダヤ人は国を失う。これ以降、1948年に現在のイスラエルが建国されるまで、1900年以上に渡ってユダヤ人は国なき民として世界中を彷徨ったのである。

 一方のキリスト教は、当初ローマ帝国に弾圧され、多くの殉教者を出したが、次第に認められていき、380年にはローマ帝国の国教に認定された。ここからキリスト教はローマ帝国の世界秩序の中に組み入れられて行くことになる。

 なお、この当時のローマ帝国の紋章を見ると、既にシンボルである鷲の姿がある。SPQRとは「ローマの元老院と市民」の略称で、ローマ帝国の主権者を表している。

古代 – ローマ帝国分裂

 「パックス・ロマーナ」と呼ばれるローマ帝国の繁栄は長くは続かなかった。キリスト教が国教になってから15年後の395年。領土が広大になりすぎたローマ帝国は、皇帝を2人立て、西の首都ローマの他に東の首都コンスタンティノープルを建設し、帝国を東西に分割した。

 国教であるキリスト教の本山もローマ教会とコンスタンティノープル教会の2つに分かれ、これが後のカトリックと東方正教会として続いていく。

 政治面を見ると、コンスタンティノープルを首都とする東ローマ帝国はそのまま安定し、中世を生き抜き、近代にさしかかる頃まで存続した。僕たちが世界史を習った頃は「ビザンツ帝国」「ビザンティン帝国」と習った小アジアの帝国の正式名称が「ローマ帝国」だ。

 一方、西ローマ帝国は、ゲルマン人の大移動に伴い、西ヨーロッパが大混乱に陥る中で480年に最後の皇帝が崩御。その後も元老院を中心とした統治が継続されたが、徐々に実権はゲルマン人に移っていく。

 ゲルマン人の王国が数多く興亡する中、西ヨーロッパの大部分を「フランク王国」として統一したゲルマン人の王カール5世に、ローマ教会は「西ローマ皇帝」の帝冠を贈り、その保護下に入った。ここに形式上、西ローマ帝国が復活したことになるが、「分割相続」の風習を持つゲルマン人の王だったカール5世は崩御した後、帝国を3人の息子に分割して相続させた。そのうち西フランク王国はのちのフランスになり、中フランク王国は早期に瓦解した後フランスとドイツに吸収され、東フランク王国は後にドイツとなった。

 東フランク王国では、山がちな地形なこともあり、各地の諸侯や有力者が割拠した。その中で少しずつ秩序が生まれ、962年、ドイツ王オットー1世が再び西ローマ帝冠を戴冠し、神聖ローマ帝国が成立した。
 以降、この帝国では皇帝は有力者による投票で決められることとなり、投票権を持つ有力者は選帝侯と呼ばれるようになった。

 ちなみに20世紀にドイツを支配したアドルフ・ヒトラーが自らの帝国を「ドイツ第三帝国」と呼んだが、この場合の「第一帝国」は、この神聖ローマ帝国を指す。

 この国が自らの象徴として紋章に選んだのが、「双頭の鷲」であった。
 ローマ帝国の紋章が単頭の鷲だったのに対し、この紋章が双頭なのは、「東西両方のローマ帝国の皇帝である」との主張が込められているとも言われている。
 なお、東ローマ帝国も「双頭の鷲」の紋章を使うようになったのは同じころだと言われているそうだ。

 宗教面に話を戻すと、395年の帝国分裂以来、教義などにおいて多くの対立が生まれていたローマとコンスタンティノープルの教会は、1054年に相互を破門し合い、これをもって教会は西のローマ・カトリックと、東のギリシャ正教に分裂した。

中世~近代 – 十字軍と宗教改革

 神聖ローマ帝国の成立によって、西ヨーロッパの政治が落ち着いた時期は、ちょうどイスラム教勢力が力をつけ、聖地エルサレムを脅かし始めた時期でもあった。

 イスラム教は610年頃にムハンマドが最後の預言者として唯一神より啓示を受け広めたもので、前述のとおりユダヤ教、キリスト教と同じく唯一神を信仰する宗教である。唯一神の啓示をまとめたクルアーンに基づく厳格な教義を持ち、中東の多くの民族をまとめてキリスト教世界を脅かしていた。

 そんな中、聖地エルサレムがイスラム教勢力に奪われると、東ローマ皇帝はローマ・カトリック教会に助けを求め、それに応じる形で聖地解放を目指す遠征「十字軍」がスタートする。
 十字軍の遠征は1272年の第9回まで、200年近くにわたって続く中、第4回十字軍の時に東ローマ帝国が滅亡した。

 西側でも、度重なる遠征はローマ・カトリック教会の財政を直撃し、度重なる免罪符の販売等による資金調達が目に余る有様となっていった。
 そんな中、教義や信仰への疑問から教会を問いただす動きが生まれ、そこからルター派やカルヴァン派などのプロテスタント諸派が次々と生まれていった。
 英国でも、ときの国王ヘンリー8世が、妻との離婚をカトリック教会が認めてくれないことを理由に自国の教会を独立させ、英国国教会とした。
 一方のカトリック側でも反省が生まれ、教義に忠実な修道会などが多く設立されて行く。日本にキリスト教を伝えたフランシスコ・ザビエルが所属していたイエズス会もそんな一つである。

 東方教会でも、東ローマ帝国を失い、コンスタンティノープルがイスラム教徒という異教徒に占領されたことで、コンスタンティノープル教会の権威が危機にされされた。

 そんな中、「自分こそは東ローマ帝国の後継者である」と名乗る勢力が生まれる。それはロシア帝国の前身、モスクワ大公国だった。モスクワ大公国・ロシア帝国に「双頭の鷲」の紋章も受け継がれていく。
 もともと東方教会では、各国ごとに独立した教会として成立していたが、ローマ帝国の後継者を称するロシア帝国のロシア正教会がそれ以降、東方教会の中では勢力を大きくしていく。

 最後に神聖ローマ帝国について。
 神聖ローマ帝国はもともと皇帝権力が弱く、中央集権化と絶対王政を進めるイギリスやフランスに対して、一つにまとまる必要性が強まっていった。
 そんな中で、北部のプロイセンと、南部のオーストリアの間で主導権争いが行われたが、最終的にはプロイセン主導でドイツ帝国(第二帝国)が成立。神聖ローマ帝国は解体された。
 オーストリアは東のハンガリーと同君連合を組み、オーストリア・ハンガリー二重帝国を生み出した。
 ちなみに、双頭の鷲の紋章はドイツ帝国、オーストリア・ハンガリー帝国の双方に受け継がれている。

 ドイツ帝国はその後、第一次世界大戦で負けて解体され、その後政権を樹立したナチス・ドイツ(第三帝国・単頭の鷲の紋章を掲げる)が第二次世界大戦で破れ、東西に分割された後、統一されて現在に至る。

現在に受け継がれるローマ帝国の象徴

 最後に、現代も鷲の紋章を受け継ぐ国家が何カ国かあるので紹介したい。

 まず東ローマ帝国の後継者を称したロシア帝国に受け継がれた双頭鷲紋は、革命で帝政が倒されると、一時姿を消すが、1991年にソ連が崩壊すると、ロシア連邦の国章として復活。今なお使われている。
 次にセルビアとアルバニアである。東ローマ帝国滅亡後、中欧・東欧に亡命政権がいくつも生まれた。その中のいずれかをルーツに持っているのだと思われる。

 次に西ローマ帝国の流れだが、神聖ローマ帝国末期に主導権を争ったドイツ(プロイセン)とオーストリアがその国章に鷲の姿を残している。しかし、いずれも単頭の鷲である。二度の世界大戦の敗戦国として、もう世界を目指すことはない、という意味もあるのかもしれない。

 紀元前753年建国と言われるローマは王政、共和制、帝政と続き、380年に東西分裂するまで1000年にわたり栄えた帝国だった。
 そんなローマ帝国を、現代を生きる僕たちは、遠い過去に栄えた文明、としか普段は考えていないかもしれない。でも、意外な形で現代に「繋がっている」ことを改めて考える時に、歴史とは現代の私たちに連綿と続く、一つの物語なのだと改めて知っていただくきっかけになったら嬉しい。

 長文にも関わらず、最後までご覧いただき、ありがとうございました。

 

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