近所の「れきけん」

FBでとあるお友達から、「東京のれきけんリポートしてよ」と言われたので、
散歩がてら、近所のれきけんを撮影して来ました。

れきけん → 歴史的建造物のこと。

今回ご紹介するのは、大田区は洗足池の近くにある「鳳凰閣」です。

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ここは昭和8年(1933年)に建てられた建物で、もともとは清明文庫という名前だったそうです。
勝海舟の別邸「洗足軒」に源を発し、国民精神涵養の図書の収集閲覧、
また付属講堂での講座開催を目的に、清明会が開館したものだそうです。

昭和29年に所有者が変わり、現在の「鳳凰閣」に改称。
近年は幼稚園の園舎として使われていたものの、それも解消し
現在はもとの姿に戻されて、使用されてません。

建物はアールデコ形式だそうで、縦長の窓がレトロ感を感じさせますよね。
せっかく残してあるんですから、何らかの形で活用すればいいのにと思いますが、
耐震性の問題とかがあって難しいんでしょうね。

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建物は3階建てでしょうか? 一部2階建てみたいですね。
書庫として使われていた名残か、建屋後ろ側は窓が小さく作らせています。

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現在は柵に囲われて、一般の人は入ることができません。
もったいないなぁ。。

<参考>
デジカメ散策 大田区の史跡・歴史 - 鳳凰閣(旧清明文庫)
http://otaku.edo-jidai.com/107.html

大田区ホームページ 鳳凰閣(旧清明文庫)
http://www.city.ota.tokyo.jp/shisetsu/rekishi/yukigaya_senzoku/hououkaku.html

僕は、室蘭が無くなるのを見たくない。

ここ2-3ヶ月ほど、ご縁があって地元室蘭市の市民活動系にいくつか関わる機会があった中で、強く感じていること。
この時代、人口が右肩上がりに増えていく状況は期待できない。まして、室蘭が半世紀後に100万都市になるかといえば、それはありえない。
でも、かといって衰退していくのを当たり前とは思いたくない。

人口が減ってもいい。室蘭らしく、室蘭気質がちゃんと引き継がれて、街として輝く存在であって欲しい。

今、多くの市民が「室蘭はもうダメだ」と思ってる。「室蘭にいいところなんて何もない。」「これからもっともっと悪くなっていく。」って。
だけど、逆説的だけど、市民のそういう後ろ向きな気持ちが、室蘭をどんどんダメにしているように思えて仕方ない。
例えば隣の伊達にしても、登別にしても、自分の街を「もうダメだ」と思ってる人は、割合としては少ないんじゃないかな、って思う。

室蘭はこのままいくと、数年後には両隣の2市と合併の道を歩んでしまうのではないかと思う。
そうなると、今の輝きのない状態の室蘭では、「室蘭」の名を残すことすらできないと思う。

僕は、室蘭が無くなるのを見たくない。

全国には、人口10万人以下でも、特色を活かして輝いてる街がたくさんある。
道内でも富良野なんかは2万5千人しかいない。
道外だと上杉鷹山の米沢藩で有名な米沢市が9万。
最近、外国人旅行客に大人気と言われている岐阜県高山市が同じく9万。
長州藩の本拠地だった山口県萩市が5万5千。

世界的に有名な都市も、意外に人口20-30万クラスの場所が結構あったりする。

大切なのは、人口ではなく、その街に「物語」があるかどうか。

モノ溢れの時代。全国どこにいっても規格品のチェーン店がひしめく現代。
旅行者が求めるのは、どこに行っても代わり映えしない土産物屋やドライブインではなく、
その土地にしかないもの。もっと言うと、その土地その土地の「物語」なんじゃないかと思う。

規格品のどこにでもある観光地は、もういらないのかもしれない。

そういう意味では、室蘭にはドラマがある。

明治8年。開拓使本庁が置かれた札幌と、
経済の中心函館を結ぶ「札幌本道」の中継地として、
室蘭にトキカラモイ桟橋が設けられた。

なんで道路なのに桟橋かと言えば、
静狩峠が険しすぎて当時の技術では道路が作れなかったから。
室蘭から内浦湾を渡って対岸の森町まで船が出ていたのだ。

やがて、鉄道開通とともに、夕張を始め空知の炭鉱地帯から石炭列車がやってきた。
石炭を積み込んだ船が次から次へと出入りし、室蘭港は急速に発展した。
その石炭が日本の明治・大正の工業化を支え、近代国家建設を支えた。

戦後は日本を代表する重工業都市として。
産業のコメといわれた鉄を生み出す街として。
日本の高度経済成長を支えた。

高度経済成長期には、全道から金の卵と呼ばれた高卒の若者たちが室蘭を目指した。

それが室蘭繁栄の歴史。

その後1980年代の鉄鋼不況により、市内の工場で大規模な合理化が断行され、
室蘭から多くの人が泣く泣く出て行った。東京へ。君津へ。大分へ。

最盛期18万人を数えた人口は、1990年台には10万人前後に。
そして2005年にはついに10万人を割った。

現在の室蘭市の人口は9万人。最盛期の半分。

空知の旧産炭地が軒並み10分の1以下まで縮小している中、
まだ半分で済んでいるだけ室蘭は運がいいとは思う。

室蘭の歴史は、こういう栄枯盛衰の歴史。

日本に都市は数あれど。これだけの激動の歴史を歩んでいる街はそう多くないと思う。
この歴史を物語る遺産が、長年の不景気で放置された結果とはいえ、室蘭には残ってる。
この街には、ドラマがある。この街には、物語がある。

是非、このドラマを。この物語を。多くの人に知ってもらいたい。
室蘭に残る産業遺産を、肌で感じて欲しい。

室蘭の市民がこの歴史を知り、この街に誇りを取り戻すことができたなら、
きっと室蘭は人口は減っても、まだまだ輝いて行けると思う。
まだまだ頑張って行けると思う。

そういう街に、室蘭を生まれ変わらせたいと思う。
なんとかしたい。周囲の市町村と合併させられて、わけの分からない地名に変えられる前に。
室蘭が、室蘭でなければならない理由を、復活させたい。

繰り返しになるけど、僕は、室蘭が室蘭でなくなるのを見たくない。

建物を大切に使うということ

僕が室蘭の歴史的建造物に興味を持ったきっかけは、中央町にある2つの建物です。

1つは、もう取り壊されて無くなってしまいました。旧室蘭商工信用組合本店です。
この建物は、実は商工信組になる前、富士銀行室蘭支店でした。
当時室蘭には北海道拓殖銀行と富士銀行、2つもの都市銀行の支店があったのです。

富士銀行撤退後、その建物はそのまま室蘭商工信組が本店として引き継ぎ、
そして室蘭商工信組が伊達信用金庫に吸収されたことで役目を終え、
ちょうど一年前の2013年1月に解体されてしまいました。

とは言え、商工信組が引き継いでから40年。
引き継いだ時点で何年くらい経ってたのかはわかりませんが、
少なくとも半世紀以上に渡り、1つの建物が大切に引き継がれ、
使われてきたことに感動を覚えたのです。

さて。今日語りたいのは、もう1つの建物です。
その建物は、現在「室蘭プリンスホテル」として使われている建物です。

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(右側の煉瓦色の建物です。左側は果物屋さんの丸十今井さん。)

古い室蘭の人なら、ここにかつて、丸井今井室蘭店があったことをご存知でしょう。
僕も子供の頃から、ここが丸井さんの跡地だということは知ってました。

そう。「跡地」だと思ってたんです。プリンスホテルは後から建てなおされた建物だと。

でも、事実は違いました。
この建物、実は丸井さんの建物を改装して今なお使っている建物なのです。

反対側から見ると、その姿が一目瞭然です。
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お分かりになりますか?
増築に増築を重ねて今の姿になっていることが。

分かりやすく線を追記してみました。
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ぱっと見で分かる建築年代の違いはこんな感じです。
AとBはもともとの丸井今井室蘭店の建物ですが、
それでもA部分とB部分では側面の窓の構造が全く違うのがお分かり頂けると思います。

C部分はおそらく、ホテルとして開業する際に増築された
最も新しい部分であろうと思われます。
やはり窓の構造がA部分、B部分と全く違うことがご覧いただけますよね。
一番最初の正面の写真をご覧頂くと、やはり2F/3F部分と比べて
4F部分が違っているのがお分かり頂けると思います。

ネット上で、中央町時代の丸井さんの外観図を見つけました。
逆側からの図ですが同じ建物であることがよくわかると思います。
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建物正面左側の避雷針なども、そのままですね。

ちなみにA部分ですが、手直しはされているものの、
恐らく昭和10年代の建物そのままなのでは・・と思います。
正面側の壁の意匠などもそのままのようですしね。

B部分は昭和30年代の改装で増築されたものでしょうね。

それぞれの写真は、以下リンク先のブログで紹介されてますので、
是非ご覧になってみて下さい。

室蘭近郊の情報BLOG – 昔の丸井今井(2011年10月04日)

ここまで御覧頂いたように、この建物、綺麗に化粧直しされてて、
普段利用していると、一部が80年近く前に建てられたものとは思えないのですが、
事実大部分が50年以上前、一部は80年近く前に建てられたものが
有効活用されているのです。

こういう建物を見るとき、昔の人がいかに建物を大切にしていたかを痛切に感じるのです。

とくに昨年末より、室蘭市中央地区で多くの建物が取り壊されています。
室蘭産業会館、北海道新聞室蘭支社、室蘭信用金庫本店。
どれも、このプリンスホテルと同年代か、もっともっと新しい建物です。
室蘭の歴史を目撃してきた生き証人です。

なんとか生まれ変わらせて、使い続ける道は無かったのかと思うと、
本当に心が痛いです。

まだまだ使えるのに、人間の都合で使い捨てにされた建物たちに
哀悼の意を表したいと思います。

八丁平飛行場の痕跡を求めて

先の大戦末期、室蘭にも陸軍の飛行場がありました。
場所は室蘭市八丁平。しかし、結局1機も飛行機が飛び立つことなく破壊され、終戦を迎えたと歴史には記されています。

戦後70年近く経ちますが、その痕跡がどこかに残ってないかと思って探してみました。

最初にGoogleマップであたりをつけます。
八丁平の区画を決める上で、恐らく基線になっているのは八丁平中央通。バスも通るメインストリートですね。
これに対して、主に東側に不自然な区割りになっている区画があります。
このあたりから線を引き、西側のこのあたりまでが、どうも飛行場のあった場所のようです。
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このあたりは、自動車学校を作れるくらいに平らな地形で、住宅地になっているあたりも異様に平らです。
自動車学校から北東に走る道路を実際に走ってみましたが、ここは不自然に直線的な斜面が続いています。
東京に帰ってきた後、国土地理院の地図サービスで見たら、間違いなく道路に沿って斜面が続いています。
そして、飛行場の跡と推定している赤枠の中はほぼ平らであることがわかります。

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逆に、この赤枠の外は、山の地形らしく、結構な起伏が見られます。

最後に、A地点にある八丁平1号公園の写真です。

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画面奥に不自然に直線的な斜面があり、
手前側が平らになっているのがお分かり頂けると思います。

どうもこの場所が、かつての八丁平飛行場の跡地と見て間違いなさそうです。
来春、もう少し気候が良くなったら、歩いてもう一度現地を調査してみたいと思います。