聖地巡礼の旅(1) 東京編

善は急げということで、聖地巡礼の旅、開始です。
第一回は、近場からということで東京からです。
この日訪ねたのは、新宿区中町の宮城道雄記念館と、
谷中墓地にある宮城宗家の墓所です。

最初に訪れたのは、宮城道雄記念館。
南北線を飯田橋駅で降り、神楽坂を登って途中で左に折れ、住宅街を進みます。
本当に、「この道でいいんだろうか?」と不安になるほど、閑静な住宅街が続きますが・・
辺りを見回すと、記念館の看板が出ています。

Img_1060

そして5分ほど歩くと、遠くに記念館が見えてきます。

Img_1061

Img_1062

本当に、住宅街に突然ひょっこり現れる感じで驚かされます。
ここはもともと、宮城道雄先生のご自宅のあった場所で、
歴代の宮城宗家がお住まいになり、門下の指導にあたった場所です。

記念館の地下には大広間と講堂があり、宗家の教場・お稽古場になってます。
箏曲宮城社の宗家主催講習会や試験なども、全てここで行われます。
箏曲宮城会の本部もここにあり、宮城社一門の本部機能が集約されているのが
この場所というわけですね。
宮城社の一門に属する者にとっては、聖地と言っても過言ではない場所です。

そして地上部分は宮城道雄先生の業績を顕彰する資料館になっており、
毎週水・木・金・土の4日間一般向けに公開されています。

Img_1064

実は僕も、宗家の講習や教師試験で何度か訪れたことがあるのですが、
残念ながらいずれも日曜日の休館日で、展示室をちゃんと見学するのは
これが初めてでした。

なお、内部は撮影禁止になってましたので、ここからは拙い文章ですが、
文にてご紹介いたします。

入場料400円を支払うと、中に案内されます。
入ってすぐの場所は高い吹き抜けになっており、正面に第二展示室。
そのドアの上には、高さ数メートルはあろうかという、
巨大な宮城道雄先生のお写真が飾られています。
もう、圧倒的とも言うべき存在感です。

その近くには、一回り小さいですが、ご夫人の貞子先生、
後継者であった姪の喜代子先生、数江先生と、
歴代のご宗家の写真が寄り添うように飾られています。

歴代ご宗家のお写真に深く一礼した後、まずは右側にある第一展示室へ。
ここには宮城道雄先生の足跡が、演奏家として、教授者として、作曲家として、等、
様々な角度から解説されていました。
資料も、例えば先生が師匠の二代中島検校に入門した時の誓約書や免状、
演奏会のプログラムや出版物、楽譜、点字楽譜や随筆の原稿など、
第一級の貴重な資料が展示されています。

さらに目を引くのが、先生がお使いになった楽器の数々。
有名なお箏の名器「越天楽」の実物や、八十絃の復元品の他にも、
先生が越天楽の前に愛用されていた「第一箏」や、普段お使いだった三絃、
胡弓や尺八、短箏や十七絃などが、全て保存されています。

残念なことは、これらは全て楽器としての命は失っており、
展示品になってしまっていることですね。
絃もまともに締められておらず、三絃は合成皮革と思しき皮が張られ、
80絃も実際に使える状態とは見えませんでした。

せっかく、宮城社の本部にある、先生遺愛の楽器なのに、
なんとももったいないことのように思いました。

一角には、楽器以外の、先生が実際に使われた日用品やカバン、
杖なども展示されています。

僕が驚いたのは、「八重崎検校の杖と伝えられている」杖がここにあったことです。
どなたかが入手して先生に贈られたそうですが、なんとも不思議な感じがいたしました。

展示室自体は大きなものではありませんが、説明の文章も充実しており、
何よりそこにあるものがまさに先生がお使いになったものというリアリティを考えると、
非常に貴重な展示室と言えると思います。
僕は結局1時間近くをここで過ごしました。

第一展示室を見終わると、先に外の検校の間を見に行くことにしました。
ロビーから外に出ると、細い通路が記念館の裏に通じています。
その先にある小さな日本建築が、先生が晩年を過ごした書斎「検校の間」です。

Img_1066

Img_1067

写真等で見るよりも、随分と小さく感じられましたが、
お庭に面したそのお座敷はとても静かで安らぎに満ちており、
まるで先生が今なおそこにいらっしゃるようにも感じました。

検校の間自体を撮影するのはなんとなく憚られたため、
お庭だけを撮影させて頂きました。お庭には先生の胸像が置かれています。

Img_1068

都内とは思えないほど静かで、清浄な空気に満ちた場所でした。

お庭でのひとときを楽しんだ後は、記念館に戻り、第二展示室へ。
ここではCDやDVDの鑑賞ができるお部屋です。

ここで「春の海」と「瀬音」のDVDを鑑賞して、時間切れ。
名残惜しいながら、記念館を後にしました。

次の訪問先は、谷中の墓地です。
飯田橋駅から中央線で秋葉原駅まで行き、そこから山手線で日暮里へ。
そこから谷中の墓地へとやってきました。

場所は聞いていたものの・・ 区画が番号通りに並んでおらず(^^;
15分ほど迷って、ようやく目的地に辿り着きました。

Img_1069

僕の先生の先生、いわゆる親師匠が道雄先生直門でしたから、
「◯◯(親師匠)の孫弟子に当たる者です。」と自己紹介してご挨拶申し上げました。

親師匠も、うちの先生が亡くなられる2日前に亡くなられてましたから、
きっとお浄土で道雄先生に再会されていると思います。

不肖ながら、宮城社の一門の末端にいる者として、
邦楽とくに宮城箏曲の発展普及に全力を尽くす旨、お誓いを申し上げてきました。

この後も迷いそうになりながら、ようやく谷中墓地を抜け、
この日の巡礼の旅は終了と相成りました。

記念館の展示物も。谷中の墓所も。本やネットの情報で知識としては持ってましたが、
実際訪れたことで、その場の雰囲気というか、空気感というか、
リアリティを感じることができました。

次回はどこにしようかな。。
巡礼の旅はまだ始まったばかりです。

聖地巡礼の旅への決意

旅のきっかけは、先日の箏曲宮城会北海道支部の総会。
支部長から、宮城道雄先生の墓所の場所について説明があり、
近くに行く機会があれば、お参りに行くようにお話がありました。

同じ総会の席で、今年の宮城道雄顕彰事業で支部を代表して、
宮城道雄先生が事故に遭われた刈谷での法要に出席された先生のお話がありました。

その時には深く考えてなかったんだけど。
日が経つにつれて、少しだけ気持ちに変化が出てきました。

先日のブログにも書いたけど、来年以降の活動に繋がりそうなお話が出てきてます。
もちろん、全国演奏会の話が第一。
そして、来年室蘭で行われる、北海道三曲連盟の全道演奏会。
同じ門下の姉弟子からお稽古に誘ってもらう機会も出てきましたし、
それ以外にも色々。

昨年末に師匠と死別してから、僕はとりあえず1年間の喪に服すことを決め、
今年は表立った活動は控えてきました。

北海道支部の全道演奏会は、先生も出られる予定だったことから、
先生の弔い合戦のつもりで出ましたし、
秋の市民文化祭は先生への追悼演奏の位置づけです。

12月に、先生が他界されて1年になります。
来年には喪明けということで、そろそろ前を向いて歩き始めなければなりません。

一時はこれを機に辞めることも考えましたけど。
僕らは、先生が育てた最後の門人です。

いや、門人という意味では僕より年若い子供たちもいましたが、
今は皆、辞めてしまって僕らが最年少。
そして、先生が育てた門人では最後に教師の職格を頂いた者です。

先生の遺志と、演奏技術と、邦楽に対する想いと。
それらを受け継ぎ、次の世代に伝えられるのは、僕達門人だけです。
そう考えたら、辞めることはもちろん、立ち止まることすら許されないと感じました。

「この先、いつできなくなるかも分からないんだから、
 できるうちはできる限り頑張りなさい。」

先生のそんな言葉に従って、これまで僕は続けてきました。
それは先生と僕との約束です。

だから。これからもできるかぎり頑張って行きます。
「こんな時、先生なら何と言うだろうか。どうするだろうか。」
常にそれを自問しながら、先生の門人として恥ずかしくないように。

来年、僕は邦楽において再起動します。
奇しくも、ちょうど僕が先生の許に入門して、来春で丸三十年。
新たな気持ちで、芸道に精進したいと思います。

長くなりましたが。
再起動するにあたり、僕らの流祖である宮城道雄先生の足跡を辿ってみたい。
そういう気持ちが強くなりました。

僕たちは箏曲宮城社の一門です。
演奏する曲は宮城道雄先生の作品です。
であれば。先生の足跡を辿ることで、きっと得られるものもあるはず。

そんな思いとともに、再起動までに以下の場所を回ることを目標にしています。

・宮城道雄記念館(東京)
・宮城道雄先生の墓所(東京)
・楽聖宮城道雄先生供養塔(刈谷)
・宮城道雄記念碑(伊勢)
・天響の門(南紀白浜)
・宮城道雄生誕の地(神戸)
・楽聖宮城道雄先生像(福山市鞆町)

何回かに分けての、ちょっとした大仕事になりそうですが。
今やらないと、これからも厳しいと思いますので、少しずつ進めて行きたいと思います。

合奏するということ。

昨日、所属するお箏の流派の北海道支部総会が札幌で行われたので、出席してきました。
正会員数293名を数える北海道支部のうち、37名の出席をもって総会が開催されました。

事業報告と収支決算報告。事業計画と予算。
このあたりはいつも通りで、つつがなく終了。

そこからが大変。
1つ目は役員の改選。事務局長さんが任期終了に伴い退任されるということで、
後任を審議したんですが、まぁ簡単に決まるはずもなく。

現事務局長の考えとして、
事務局長の仕事が大変なため2名体制にした方がいいのではないか、ということと、
行事や合同練習、会議が札幌で開かれるため、事務局は札幌にあった方が望ましい
という2点が示され、総会にて同意を取り付けました。

最終的な人選は支部長始め上層部に一任するということで、審議終了。

もう一つが、来年の全国演奏会について。
パート分けは上層部にお任せ下さいとの支部長の言葉に同意。
そこで出てきたのが、合同練習を何回するのか、という話。
そして、そのうち何回出るべきなのか、というお話。

ここで議論が深まり、長時間を要しました。
細かな内容は伏せますけど、2010年の全国演奏会、昨年の全道演奏会の折、
合奏練習の出席率が極端に悪かったという個人と
その社中が吊し上げにされそうになったり、少々ドキドキする内容でした。

こういう追究って、男性の支部長だからの面もあるんでしょうが、
少々怖いな、と思ったのが正直な感想です。
もちろん、より良い演奏を創りあげるために、支部としての規律を守る意図から、
心を鬼にしておっしゃったことと思います。

その中で、「合奏とは何か。」「合奏練習とは何か」という話題が出てました。
僕はそんなテーマに対して発言する立場にはありませんので、
自分の考えを表明することはしませんでしたが、諸先生方と考え方は一緒でした。

個人的には、合奏はチームワークと思ってます。
スポーツと同じで、個人個人がどんなに活躍しても、
それがバラバラでは意味がありません。

一つの目的に向かってチームのビジョンが一致し、役割分担し、
各個人がちゃんと役割を果たすこと。それが合奏だと思います。
そして、そのビジョンを共有し、役割分担を確認し、実践練習をするのが合奏です。

そのチームワーク、1度顔合わせした程度では生まれません。
何度も何度も一緒に稽古することで、初めて生まれてくるものです。

我々は演奏者ですから。舞台に出ることを承知するということは、
舞台で、自分たちができる最高の演奏をすると約束すること。
その為にあらゆる努力をすることを約束することに他なりません。

本番の舞台に出ることだけに承知したわけではないはずです。
本番に至るまでの、創りあげのプロセスに、チームの一員として参加すると、
そう約束することが、舞台に立つ、ということだと思います。

なので、合奏練習の例えば5回あるうち最低4回は・・とか、
1回は休んでいいとかではなく、5回あれば5回全て出る義務がある。
そう考えるべきだと僕は思います。

少なくとも僕は自分の師匠の教えをもとに、このように解釈してます。

ただ、全員が全員そう考えるかどうかは別。
個人の価値観・考え方は尊重されるべきです。

ならば。舞台には出たいけど合奏練習には行きたくないという方には、
「舞台」と「合奏練習」は分けることのできない一体となるものですから、
「舞台に出ない」という自由を行使して頂ければ結構かと思います。

ついついダラダラと自分の考えを書いてしまいました。
総会後、先日の全道演奏会でお世話になった先生方にご挨拶して回りましたが、
やはり同じチームとして本番を乗り切ったメンバーとして見て頂けてるのが、
大変親しく接して頂き感激しました。

そして、意外に北海道支部の先生方から顔と名前を覚えて頂いて。
親しく声をかけて頂く先生が多くなったことに驚いてます。
一生懸命頑張っててよかったと報われた気持ちになりました。

とある先生は、うちの師匠が亡くなられたことで、
僕がこれからどうするのか、と気にかけて下さった方もいらっしゃいました。
「うちの先生のご遺志ですから、これからも北海道でご一緒させて頂きたいと思ってます。」
そうお伝えしました。

このように暖かく受け入れて下さってる皆様なので、
未熟ではありますけど、少しでもご一緒に勉強させて頂きたいな、と感じました。

森の奥の音楽会

1002960_484797478267515_1829310600_

この週末は北海道に帰ってました。

土曜日は、登別のある先生の会をお手伝いしに、登別市鉱山町へ。
この鉱山町、その名の通りかつては鉱山があり、その周りに市街地が形成されてて、
学校や神社はもちろん、映画館まで揃って大変賑やかだったとか。

1970年代に鉱山が閉山し、40年余りが経った今では住人も居らず、廃村の雰囲気になってます。
そんな廃村の旧小学校活用して整備されたのが、
「登別市ネイチャーセンター ふぉれすと鉱山」という施設です。
NPO法人モモンガくらぶさんが管理されており、自然豊かな環境を活用して
トレッキングとか、子供向けの自然教室とかを実施してます。

ふぉれすと鉱山には、ちょっとした大きさの体育館兼ホールと宿泊施設も併設され、
そのホールを会場に毎年行われているのが、この「鈴の会」という演奏会です。

この「鈴の会」、今年で3回目になるんですが、第1回の時に出演させて頂いたご縁で、
こうして毎年お手伝いさせて頂いてます。

具体的には、舞台裏方(楽器の出し入れと舞台配置)と調絃係ですね。

本当は、この会の会主から毎年、「来年は都合が良ければ弾いてくださいね」と言われてるんですが・・
なにぶんこの先生は山田流今井派。僕は生田流宮城社。
流派が違うので、なかなか難しい部分があるんですよね。

とは言え、それを言い続けてても邦楽の発展は無いので、
今年・来年と自分の流派・自分の社中にきっちりご奉仕した上で、
来年か再来年には姉弟子のお許しをもらって、参加させてもらいたいなぁ、と思います。

この会、今どきには珍しく中高生の会員がいるんですが、
この子たちの成長が年々目を見張るものがあり、それもまた楽しみだったりします。

また、邦楽に限らず詩吟や、今年は三線などを取り入れているところも面白いところ。
そして、幌別の市街地から30分以上も走らないと着かないような山奥に関わらず、
毎年100人近いお客様が足を運んで下さいます。
この辺りで行われる邦楽の会としては大変多く、会主の人柄が伺えますよね。

今年も暖かで、とてもよい会になりました。
来年もまた、ここで鈴の会が行われることを願ってやみません。

決断。

久しぶりのブログ更新です。皆様ご無沙汰でございます。

前回のブログ更新から今日まで、下合わせで札幌やら、
仕事で鳥取やら名古屋やらブッ飛んで歩いてました。

今週は特に遠出する予定もなく穏やかな一週間になりそうですが、
来週はまた、仕事で静岡、プライベートで室蘭、札幌。
次の週は仕事で富山、週末は下合わせで札幌と、再びブッ飛び人生に戻りそうです。

まぁ、もう若くないことは自覚してるので、無理せず休み休み、
体力温存しながら過ごしたいと思います。

前置きが長くなりましたが、本題に入りましょう。
一つ、邦楽に関して決断を下しました。

来年、東京で行われる全国演奏会に申し込むことにしました。

室蘭からはほとんど出る人もおらず、もちろんうちの社中からも参加者ゼロの見込み。
そんな中で、僕自身どうしようか迷ってたんですが・・・。

先生が健在なら、なんと仰るかなぁ、と考えてみるに・・・

「頑張れるうちは、一生懸命頑張って勉強しなさい。いい機会じゃないの。」

きっとそう仰られる気がして。

もちろん、出るからには生半可な練習量では出られません。
まして、来年は室蘭で全道演奏会があり、それにも出演予定です。

でも。それでも。
先生が亡くなられて。定期的にお稽古して頂く機会が失われて。
こういう目標でもないと、モチベーションを維持できない気もしてました。

前回の全道演奏会で一人弾きした時の練習量とか、
昨年、教師試験を受けた時の練習量を考えれば、
僕にはまだまだ、練習量は確保できるはず。要はやる気だけです。

幸い、姉弟子に相談してみたら快く、「いいよいいよ。挑戦してみなよ」と言ってくれたので。
次回、室蘭に帰省した時にでも、出演を申し込みたいと思ってます。

僕の先生はもういません。
僕がこの世界で、どう進んでいくべきかは、
こうして、「先生に相談したら、どう答えてくれるかな?」と自問しながら、
同門の姉弟子たちに相談しながら、進んでいくしかありません。

僕はどこに行っても、いつになっても、先生の門人であることは変わりようも無いので。
先生の門人として相応しく振る舞うように努力して行きたいものです。

「さすがあの先生の門人だ」と言ってもらえるかはわかりませんけど、
そこに近付けるように、精進あるのみです。

よし。

がんばろう。

5月の下合わせ(室蘭)

室蘭での5月の下合わせがあったので、行って来ました。
今回は夏の曲(箏)、夕顔(三絃)、飛鳥の夢(十七絃)の予定だったので、
箏と十七絃と三絃を持っていく羽目に・・。(^^;

先生ご健在の頃は、お箏と十七絃は借りられたので、三絃だけで良かったんですが。。
これまで当たり前に思ってましたが、すごく助かってたんだなぁ、と実感してます。

一曲目は夏の曲。
本番ご一緒する人たちのうち、札幌から4人来蘭して一緒に稽古しました。
みっちり1時間強かけて通し稽古を数回です。

その後は夕顔。
この曲は、昨年亡くなった宮城社の先生3人に対する追悼曲の位置づけになっており、
3社中合同での演奏となります。
珍しい人たちも集まり、箏10名近くに三絃8名という大所帯での練習となりました。
まぁ、それだけの大人数にも関わらず、皆さん大ベテラン揃いなので、大きな乱れも無く、
順調な練習となりました。

この後、飛鳥の夢を予定してましたが、残念ながら時間切れ。
ここでこの日の練習は終了となりました。

教師試験で僕より上位だったはずの姉弟子が、
僕より後ろに行こうとするのでちょっと困ってます。

その姉弟子は10年近くお稽古お休みしてたので、
助教の時は、僕の方が先に助教取ってるので先でも不自然じゃなかったですけど。
その席次は教師になった時点でリセットされてて、
教師としての席次は姉弟子の方が上なんだよっていうことを、
機会を見てお話しないといけないなぁ、と思ってます。

その辺、ちゃんとしないと、僕が順番狂わせてるみたいに見られても困るので。

そんなこんなで5月の下合わせは終了です。次回は6月2日。
頑張ります。

今月の邦楽ジャーナル

ようやく今月の邦楽ジャーナルに目を通しました。
生田流正派が100周年を迎えるとのことで、特集記事が載ってましたね。

あと印象的だったのが、爪の特集その2。
国内で活躍する生田流奏者何人かのコメントが載ってたんですが、
多くの方が書かれているのが、「山田流の音に近づけたくて」という言葉。

山田流の音色に魅せられてるのは僕だけじゃないんだ、と驚きました。

僕も身近に山田流の先生がいて、年に数回は演奏を聴く機会があるんですが、
その先生の奏でられる箏の音が、力強く芯があり、それでいて繊細で、
毎回箏ってこういう音が出るんだと目から鱗が落ちてます。

その先生の演奏を初めて聞いたのは3年前、
まもなく4年前になろうかというところですが、その時からです。
自分の爪音をもっと変えられないかと、色々と工夫を始めたのは。

もちろん山田流と生田流とでは爪が違いますから、いろいろ工夫が必要です。
僕はまず自分の弾き方から研究しましたが、爪を工夫するという方法もあるんですね。

力強く、芯があって、それでいて澄んだ、繊細な音色。
僕はそれを「凛とした音」と思ってるんですが、
凛とした音色を出せるように日々精進したいですね。