議論と口論

 今年は、いろんな人のいろんな考え方が交錯することが多い一年だと思う。
 新型コロナウイルスによるパンデミックという緊急事態において、人が何を感じ、何を考え、何を大切に思うかの違いが浮き彫りになっているのが理由だけど、あわせて、僕ら日本人の「議論下手」も明るみに出ているなぁ、と改めて感じるところです。

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死生観

「もう思い残すことはない」
「明日お迎えが来ても構わない。」

死ぬ間際の老人のセリフではないですよ。
ここ数年の僕の感じていることです。

「あんたにはまだ早い」という諸先輩の怒声が聞こえてきそうですが、本当にそう思うのだから仕方ない。

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キリスト教とローマ帝国

 先日、Facebookで「牧師と神父の違い」なる記事を見つけた。その記事では、牧師と神父の違いから、カトリックとプロテスタントの違いに導いて、ざっくりと説明していた。

 世界三大宗教の一つ、キリスト教。日本人にとっては、クリスマスなどもあり、仏教・神道に次いで身近なはずの宗教だが、その宗派やたどってきた歴史についてはあまり知られてないように思う。僕も、高校の時に世界史を学ぶ中でなんとなく整理してきたのが実情。いい機会なので一度、整理しておきたい。

 キリスト教を考える時に、もう一つ関連して整理したいものがある。それがタイトルにもある「ローマ帝国」だ。多くの人にとっては、古代ヨーロッパに存在した超大国・・・くらいの認識しか無いのではないだろうか。

 でも、ローマ帝国の後継を自認する国が現在も存在しているとしたら? ローマ帝国が実は近代まで存続していたとしたら?
 そんなローマ帝国の歴史を、その象徴である「双頭の鷲」「単頭の鷲」の紋章も絡めながら紹介したい。

 なお、本稿は僕が独自に調査し整理したもので、「絵的なわかりやすさ」「流れとしてのわかりやすさ」を基準に整理している。場面によっては乱暴すぎるこじつけや、雑すぎる整理があろうかと思うがご容赦頂きたい。
 明確な誤りがあれば、ご指摘をお願いして、本稿に入りたいと思う。

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テレワークが生み出した分断がDXを阻む

 今般のコロナ禍によって、とくに首都圏の多くの企業が、好むと好まざるとに関わらず、テレワークなどに取り組まざるを得なくなった。
 これによって、デジタルトランスフォーメーション、いわゆるDXが劇的に進むかと期待をしていたんだけど、どうも現実はそうはならないようなので、そのあたりについて思うところを書いてみたいと思う。

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50歳までの10年間に目指すこと

本日、2020年7月17日は、僕の40回目の誕生日です。
大きな節目に際し、日頃お世話になっている皆様、導いて頂いている諸先輩方に心より御礼申しあげます。
 
さて。10年前の2010年、30歳になった時に僕は、「40歳までに室蘭に帰る」というのを長期目標に設定しました。
というか、厳密には、「40歳までに室蘭に帰る。帰れない場合は諦めて、帰らない前提で人生設計し直す」でした。実際にはご縁があって、目標より3年前倒して37歳の時にUターンしてきたわけだけど。
 

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中国が日本メーカー製マスクの出荷を認めない理由

 先日からこの問題がチラチラと報道されています。(そしてマスコミはあまり積極的に報道してないように思うけど。)
 要は、中国国内にある「日本企業の所有する工場」で「日本向け」に生産されたはずのマスクが、中国当局に抑えられて日本に出荷できない、という事態。

 この問題って、「外国に頼る危険性」とか、保守層からは「敵性国に頼る危険性」なんてことが言われているけど、実はこれって外国だからでも、敵性国だからでもなくて、「中国が共産主義国家だから」ということが根底にあるんじゃないかと感じたので、少しそのことについて書いてみたいと思います。


写真提供:フリー写真素材ぱくたそ

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厄除け祈願で感じたこと

今年、僕は数え41歳の前厄になります。
1週間前の話になりますが、地元の氏神様に厄除け祈願に行ってきました。

ちなみに、厄祓いと言う人も多いですが、すでに起きてしまった厄を祓うのが厄祓い。厄が起きないように祈願するのは厄除けというらしいです。

数え24歳の本厄のときに、運が悪けりゃ死んでたかも、という自損事故をやらかして、厄除けに行った時以来ですが、やはり昇殿しての祈願は気持ちが改まりますね。

そんな中で、一つ改めて感じたことがあるので、自己メモ兼ねて、残しておきたいと思います。
ここから書くことは、僕の独自解釈なので、神道本来の教えとは違うかもしれません。そこはご了承下さいね。

人智の及ばないものから守ってくれるのが神様

人は、生きていると、自分の力ではどうにもできない出来事が何度かあるものです。天災の類はまさにそうですし、巻き込まれ事故とかもあります。思いがけないタイミングで体調を崩したり、病気になったりもします。

実は、本当はもっとたくさんの災いが人生には待ってるのかもしれない。でも、その災いのいくらかから守ってくれているのが、神様なんだと思うんですよね。
だから、僕は神社で参拝する時には、「ありがとうございます。」「いつも見守って頂いて、ありがとうございます。」としか言いません。

そして、そういった「人の力ではどうにもできないもの」が「厄」であり、それから守って頂くようにお願いするのが厄除け祈願だと思うんです。

神様が守ってくれている以上、うまく行かないのは自分の責任。

厄除け祈願に行って、「これで神様が守ってくださる。全てうまく行く」と考える人も多いのかもしれませんが、僕が今回感じたのは全く別のものでした。

自分の力ではどうにもできない災いからは、神様が守って下さる。

ということは。

それでもうまく行かないなら、それは自分の力でなんとかできるはずのものを、やってないだけ。自分の責任。

ということなのではないかと感じたのです。

やや不敬な言い方になりますが。
人生において、前へ前へと進むのは僕が自分でやらなきゃいけないこと。
じゃあ、神様は何をやってくれているのかといえば、僕の背後をそっと守ってくれている存在なんじゃないかと。

今年、年初に引いたおみくじは、厄年にも関わらず、大吉でした。
中身をよく読んだら、心を素直に、身もちを正しくすれば、何事も思うままになると書かれてました。だから欲を離れて人の為に尽くしなさい、と。

これは僕には、「背中は守ってやるから、心を素直に、思い通りにやりなさい」との神様の言葉のように思えたのです。

なので、今年の僕は、背中は神様に預けて、人のために、このまちのために、思い通りに突っ走ります。(あれ? 結局いつも通りじゃん。)